第6回 多田純子さん  (ぶんぶんうぉーく・てのわ市事務局スタッフ、グラフィックデザイナー)

今回は、国分寺を歩いて街の魅力を発見するイベントとして「ぶんぶんうぉーく」の事務局&総合パンフレットの制作などを担当する、多田純子さんに登場して頂きます。今年で10回目となるぶんぶんうぉーく。私たち「ぶんハピねっと」も初年度から関わらせていただいているイベントです。多田さんが関わってきた地域活動の、これまでとこれからをじっくり伺いました。

多田純子さんのプロフィール

宮崎県出身 武蔵野美術短期大学入学と同時に上京。卒業後、企画デザイン会社などでグラフィックデザイナーやアートディレクターとして働く。2004年に結婚。以後、フリーのグラフィックデザイナーとして活動を始める。2008年より「国分寺モリタテ会」に参加。『ぶらぶらマップ2号』の制作スタッフとして地域デビュー。2011年から「ギャラリーうぉーく」、「ぶんぶんうぉーく」の実行委員、事務局、さらにパンフレット制作にも携わる。2018年からは、多摩・武蔵野エリアで活躍するクラフト作家や店舗を迎えたイベント「てのわ市」や「てのわ夜市」などを立ち上げ、「てのわ部」運営メンバーとして活動中。

国分寺市在住。


地元を知る&ぶらぶらマップで地域デビュー

阿多 ご出身は宮崎県とのことですが、国分寺との関わりは大学に入学して上京されてからですか?

多田さん(以下呼称省略) そうですね。18歳で上京して、最初の下宿先が国分寺の東元町だったんですよ。翌年、大学の友人達と一緒に1年間小平に住んで、卒業後は、就職を機に通勤に便利(笑)という理由で国分寺に戻りました。まだ、国分寺に特快が停まらなかった時代ですけどね。(国分寺に特快が停まるようになったのは1989年から)それ以来、ずっと国分寺に住んでいるんですが、仕事に行って帰る場所というだけで地域のことは全く知らずに暮らしてました。

阿多 そんな多田さんが、地域活動に参加するきっかけは何だったのですか?

多田 長く国分寺に住んでいるのに地域のことは全く知らないという生活に、これでいいのかなと思い、結婚後「仕事を辞めても続けてもどちらでもいいよ」とだんなさんが言ってくれたこともあって、生活者として地元で地に足のついた生活をしようと会社員を辞め、しばらく家にいることしました。そんなとき、マンションの役員の方から声をかけられ、マンション内のレクリエーション委員会(※1)を手伝うようになったんです。今思えばこのマンションに住んだことも地域を知るきっかけですね。

※1:現在の名称は、コミュニティー委員会

阿多 マンション内のレクリエーション委員会って、あまり聞いたことがありませんね。

多田 国分寺で一番歴史のあるマンションだったためか、マンション内のコミュニティがとてもしっかりしていたんですよ。年に4回ほど『マンション便り』が発行されたり、以前は月1回の街歩きの会があったり、旅行があったりしたそうです。現在は、月1回『日曜喫茶』と題した茶話会やマンションの集会室での『飲み会』、夏は、納涼祭というバーベキュー大会、忘年会、新年会などがあります。

ぶらぶらマップ第1号(手前)とVol,1〜4

阿多 今もかなり充実してますね。現在のマンションに住まれたことが、地域活動の大きなキーになっていますね。そして、『ぶらぶらマップ』の参加が地域活動デビューとなって、現在の活動に続いていくんですね。

多田 そうなんですよ。たまたま、知り合いから「友人が絵を描ける人を探している」と声がかかり、よくわからないままミーティングに参加し、気付いたら「国分寺モリタテ会」(※2)のメンバーになっていました。

ちょうどこれから『ぶらぶらマップ2号』を作ろうとしている時で、保坂さんご夫婦、奥田さん(当時新聞販売店勤務)、野口さん(2010年まで発行の地域情報誌『武蔵野から』発行人)が初期のメンバーでした。

※2:「国分寺モリタテ会

1級建築士で、ギャラリーウノビックのオーナーである保坂さんが立ち上げた会。地域の魅力を伝える『ぶらぶらマップ』(Vol.1~4)を作成している。国分寺の紀伊國屋書店、文具店の山水堂、おたカフェなどで販売中。

 

ギャラリーうぉーく、ぶんぶんうぉーくへの参加

阿多 『ぶらぶらマップ』に参加した後、「ギャラリーうぉーく」(※3)や「ぶんぶんうぉーく」(以下「ぶんぶん」と表記)の立ち上げから関わっていらっしゃいますね。それぞれが誕生した経緯などを教えてもらえますか?

※3:ギャラリーうぉーく

「国分寺モリタテ会」の保坂さんが中心になってスタート。食もアートとしてとらえ、ギャラリーだけでなくカフェなども参加している。

多田 全ての始まりは『ぶらぶらマップ』なんですよ。きっかけは、カフェスローオーナーの吉岡さんが、『ぶらぶらマップ』を見つけて、当時新聞販売員だった奥田さんから保坂さんを紹介してもらったことなんです。それまで府中にあったカフェスローが国分寺に移転してきたのと、会社員だった高浜さんがおたカフェをオープンした時期が同じ頃だったので、吉岡さんも高浜さんも何か国分寺でイベントをやりたいと考えていたようです。

阿多 吉岡さんと高浜さんをつないだのも、奥田さんですよね。現在も「ぶんぶん」の事務局を担当して、企業から協賛金を集めたり、新聞販売店の仕事で培った商店街との繋がりを広げたりと、彼がいなかったらこのイベントは実施されなかったかもしれないくらい重要な人物ですよね。

多田 本当にそうですね。奥田さんがいてくれたお陰で個性的なメンバーをつなぐことができて、イベントもスタートができましたからね。そして、企画がスタートした2010年は、ちょうど都立武蔵国分寺公園の公園管理が都から「NPO法人バース」に変わった年でした。バースの蜂須賀さんや宮奈さんたちもちょうど公園で何かイベントをしたいと考えていたこともあり、「ぶんぶん」に積極的に参加してくれたことも大きかったですね。

阿多 それまで武蔵国分寺公園のイベントといえば国分寺まつりくらいしかなかったですからね。バースさんに変わってから、公園がすごく魅力的な場所になりましたね。

ぶんぶんうぉーく開催時、おたカフェ前の湧水タウンの様子

多田 宮奈さんたち公園側の協力がなかったら、「ぶんぶん」はここまで大きく広がらなかったんじゃないかと思います。

阿多 2010年の国分寺には色々な力やエネルギーが集まってきていて、今思えば「ぶんぶん」は、生まれるべくして生まれたイベントだったということですね。

阿多 「ぶんぶん」と一緒に「ギャラリーうぉーく」も同時開催という形でスタートしましたよね。

多田 保坂さんは、「ギャラリーうぉーく」をどうしてもやりたかったので、「ぶんぶん」と同時開催としました。当初は、「ギャラリーうぉーく」と「クラフトヴィレッジ」のスタッフとして「ぶんぶん」に参加していました。

阿多 第1回目の「ギャラリーうぉーく」と「クラフトヴィレッジ」の運営は、大変だったんじゃないですか?

多田 出店する作家さんを集めるのが大変でしたね。市内に多くのギャラリーがなかったので、保坂さんの発案で「公園にクラフト作家さんを集めたテントギャラリーを作ろう」ということで「ギャラリーうぉーく」+「クラフトヴィレッジ」という形での開催だったんです。

阿多 「クラフトヴィレッジ」の作家さんは、どのようにして募集したんですか?

多田 最初の年は、公募ではなくインターネットで見つけたり、知り合いのクラフト作家さんに声をかけたり、知り合いからお友達を紹介してもらったりしました。作家さんを求めて、都内のクラフトイベントに企画書を持って行ったりしたんですよ。また、ギャラリーだけでなく飲食店やカフェ、個人宅などにも直接足を運んで、絵画やクラフト作品の展示などを協力してもらったりもしました。

多田さんが制作を担当する「ぶんぶん」の総合パンフレット

阿多 何かを始めるときは、色々な苦労がありますよね。2013年からは「ぶんぶん」の事務局と総合パンフレットの制作も担当されてますよね。不安などなかったのですか?

多田 事務局は、手伝ってほしいと声をかけられたのと、総合パンフもスケジュール管理さえしっかりしていれば大丈夫と思い、引き受けました。基本、イベントなどプロジェクトをサポートするのは、好きな分野だったのでなんとかなると思っていましたね。

阿多 第1回目の「ぶんぶん」は、2011年9月に開催されましたね。実は、私たち「ぶんハピねっと」も同じ年の10月にスタートしたんですよ。初年度は受付をお手伝いさせて頂き、2年目はベビーグッズのxChangeで参加、3年目からは実行委員として親子タウンの企画を担当しました。多田さんとはそこからのお付き合いですね。それにしても9月開催は、お天気には悩まされましたね。

多田 そうですよね。当初は、9月の開催だったので、毎年のように雨や台風など悪天候の日があり苦労しました。特に2013年の「ぶんぶん」は、台風が直撃して、公園や「クラフトヴィレッジ」など屋外イベントが、残念なことに全て中止になりました。

阿多 その年は、後日「クラフトヴィレッジ」のリベンジ開催がありましたね。

リベンジ開催したクラフトマルシェの様子

多田 公園側から「ぶんぶん」のリベンジ開催をしようと声をかけてもらい、11月に武蔵国分寺公園で飲食店数店舗と一緒にクラフト作家さんに声をかけて、「クラフトマルシェ」と称して開催しました。イベントは、お天気にも恵まれ、とても好評でした。その成功もあって翌年からは、「ぶんぶん」の開催も現在の11月に変更しました。さらに季候の良い5月に「緑のギャラリーうぉーく」(※4)を新たに開催(2014年〜2017年)し、「ぶんぶん」と同時開催の「紅葉のギャラリーうぉーく」(2011年〜)と2014年からは年に2回「ギャラリーうぉーく」を開催することになりました。

※4:もともと「ぶんぶんうぉーく」は、季候の良い5月開催を予定していたイベント。東日本大震災が起きたため、開催が9月に延期になりました。そこで、「ギャラリーうぉーく」だけでも5月開催したいということで「緑のギャラリーうぉーく」がスタートしました。

 

自分たちも楽しめるイベント「てのわ市」の立ち上げ

楽しさが伝わる第1回目のてのわ市のフライヤー

阿多 「緑のギャラリーうぉーく」は、2018年で終了し、その代わりに登場したのが「てのわ市」ですね。

多田 年2回、春と秋の「ギャラリーうぉーく」、「ぶんぶん」でのクラフトヴィレッジ開催で多摩・武蔵野エリアの作家さんとの繋がりを広げることができました。その反面、イベントを継続していくためのサポートが年々ルーティーン化していって「これからは、もっと自分たちが楽しめること、自分たちが選んだ人に出店してもらえるようなイベントもやりたいね」という思いが出てきました。それで、今まで一緒に活動してきた武蔵野美術学院の学院長山内さん、くるみギャラリーオーナーの寺口さん、イラストレーターで陶芸家の堀込さん達と「てのわ部」を作り「てのわ市」を立ち上げ、第1回目を2018年6月に武蔵国分寺公園のこもれび広場にて開催しました。

木々の緑が美しいこもれび広場で開催された「てのわ市」

阿多 私たちも初年度の「てのわ市」にワークショップで声をかけて頂き参加しました。お天気もよく、たくさんの来場者で、大成功でしたね。会場のこもれび広場は、大きな木となだらかな斜面の丘があり、良いロケーションですよね。

多田 初めてのイベントで準備も大変でしたし、どのくらいの方が来てくれるのか全てにおいて手探りだったのですが、お陰様で1回目も2回目も天候にも恵まれてたくさんの方に来ていただき、嬉しかったですね。

阿多 準備は相当大変だったと思います。会場で使う手作りの旗など全てスタッフが1枚ずつ、シルクスクリーンで手刷りしたそうですね。デザインのセンスも良くて素敵でした。

多田 そうなんですよ。予算がないなか全て手弁当でした。大量のテントは、ギャラリーうぉーくで毎年少しずつ購入したものを、保坂さんからお借りするなどして色々助けてもらいしました。また、保坂さんには出店者として「てのわ市」にも参加してもらいました。2019年、2回目の「てのわ市」では、新しい試みとして「森の中美術館」を開催しました。場所は、こもれび広場の奥にある野鳥の森で、美術作品を10点ほど展示しました。見た方から「とてもよかった。1日で終了してしまうのはもったいない」とお声を頂いたこともあって、次回は「てのわ市」前後も楽しんでもらえるようにしたいと計画しています。

阿多 「緑のギャラリーうぉーく」とは別企画運営のイベントとして「てのわ市」を開催されてきたわけですが、「ぶんぶん」でのクラフトヴィレッジは、続けて開催されていますよね。

多田 現在のクラフトヴィレッジの出展は、公募でアマチュアのクラフト作品も出店可能にしています。「てのわ市」では、公募をせず、私たち運営メンバーがお薦めしたい、多摩・武蔵野エリアでプロとして活動するクラフト作家さんや魅力ある店舗さんに参加してもらっています。

お客さんで賑わう第1回目のてのわ夜市の様子

阿多 それぞれで棲み分けたクラフトイベントなんですね。また、10月には「てのわ夜市」も開催しましたよね。

多田 「てのわ夜市」は、国分寺マンションの地下1階にあるアンティークアベニューにて開催しました。2つも新しい事を始めた上に、「ぶんぶん」もあって、正直ヘロヘロになりましたが、楽しかったですね。

阿多 「てのわ夜市」、夜市という響きが魅惑的ですし、夜のお祭りと想像するだけでワクワクしますね。私も伺いましたが、個性的なお店が出ていて、小規模ながら出展する人も楽しんでいる感じが伝わってくる魅力的なイベントだなと思いました。

多田 夜市では、アンティークアベニューの店舗にも協力していただきました。普段、昼間のイベントには、営業時間中のため参加出来ない店舗などにも、参加をお願いしました。私たちスタッフも出店し、楽しみました。

阿多 今まで10年以上、地域の活動をしてこられた多田さんですが、今後の活動として何か考えている事、やりたい事があれば教えてください。

多田 「てのわ市」という形でスタートした「てのわ部」ですが、運営している私たちスタッフは、全て「てのわ部」の部員です。部長は、武蔵野美術学院学院長で「ギャラリー634」の山内さん。部活動のひとつが「市」だっただけで、今後は「てのわ市」に限らず、幻燈会(※5)、マップ作りだったり、もの作りだったり、自分たちでやりたい事を色々な形でできればと考えています。私は、会社員時代にプロデュースやイベントのサポートが得意分野だったので、そのスキルを活かして、今後もてのわ部のやりたい事を実現できるよう活動していければと思っています。

※5:幻燈とは、写真フィルム・図版・実物などに強い光を当てて、レンズで幕などに拡大映像を投映して見せるもの。(大辞林 第三版 コトバンクより)

多田さんのぶんハピ 国分寺歴 40年

仲間がいる国分寺で生活すること

私のぶんハピはズバリ、現在住んでいるマンションとまちの仲間ですね。

学生時代から憧れていたマンションに住み始めて約20年。地域デビューのキッカケでもあり、他人なのに親戚づきあいの様な隣人との距離感が心地いいですね。そして、至るところで手を振り合える仲間と出くわすこと。会社と家の往復だけだった国分寺の暮らしが、ぶんハピになりました。

 

取材を終えて

前回からほぼ5年近くも!更新していなかった「ひと」ページ。次は地域で活動する私と同年代の貴重な仲間、多田さんにお願いしよう決めていました。

あっと言う間に経ってしまった5年という年月の間に、多田さんは「てのわ市」という新しいイベントを立ち上げていました。

いつ会っても笑顔で、何でも柔軟に受け止めて地域活動をしている多田さん。彼女自身も楽しめることとして、仲間と始めた「てのわ部」の活動。次の展開を楽しみにしたいと思います。

このインタビューをまとめている間に、世界中がコロナウイルスによる感染が拡大し、現在、日本も不要不急の外出自粛となりました。ウイルス収束に未だ先が見えない状況で、残念ながら今年の6月に予定されていた「てのわ市」は、中止となり、10周年となる「ぶんぶんうぉーく」の開催も来年に延期になりました。楽しいイベントが先になってしまいましたが、きっと今までよりパワーアップしたイベントとなること間違いなし、楽しみに待ちましょう。

(2020年4月)

 

  取材:CHEERS

 


第5回 鈴木雅大さん かたぐるまの会 元代表

第5回目は、国分寺市第六小学校を拠点にお祭りを開いてきた「かたぐるまの会」の元代表、鈴木雅大(がだい)さんです。地域の真ん中にあって子どもたちが通う学校は、今の時代に残された「はらっぱ」ではないだろうかと語る鈴木さん。子どもたちとその保護者が地域の人たちと一つ輪になって、手づくりで毎年開いてきたお祭りは、夏の縁日には1200人、春のもちつきには800人がコンスタントに集まる、今では地域恒例の行事に育っています。そんな祭りを興したこの会がどうやって生まれ、これからどこへ向かおうとしているのか、伺いました。

鈴木雅大さんのプロフィール

東京都出身。大学でフランス語を教える。2児の父。「かたぐるまの会」の発起人で、この春(2013年度)までその代表を務めていた。「北町公園をみまもる会(※)」世話人。「国分寺であそぶKAI(※)」にも発足から関わる。

(※1)「北町公園をみまもる会」:設計段階から市民参加で誕生した公園を“育てて”いくことを通して自分たち(地域みずから)も“育つ”ことを願って生まれた会。周年祭『春のきたまち』の主催者。

(※)「国分寺であそぶKAI」:市の北側にも「もうひとつ“プレイ・ステーション(冒険遊び場の拠点)を”の署名活動から始まった、子どもたちの外遊びを推進する運動体。『ワイルドにあそぼう!』主催者。

 

だれでも、やりたいからやる、そこからしか始まらない

 ―かたぐるまの会は、いつ・どうやって生まれたのですか。

 鈴木さん(以下、敬称略) 2001年、今の学校の週完全5日制が始まった年の秋のことです。(六小の)PTA会長さんから「お父さんたちで何かできないか」と持ちかけられ、ではひとつやってみましょうかと呼び集めた最初は10人のさむらいの「作戦会議」からこの会は始まりました。核となったのはこの年僕がキャンプ長を務めたしんまち学童のサマーキャンプでした。10人中7人までがその仲間だったというだけではありません。発想から組織の作り方にいたるまで、すべての母胎はこの学童のキャンプにあったのではないかと思っています。

 ― 学童というのは学童保育所のことですね。

 鈴木 そうです。学童にもPTAと同じ父母の会というのがあって、サマーキャンプも形のうえではその行事のひとつなのですが、これだけは年度ごとに役員が切り替わるPTAとはちがい、毎年その年のキャンプで次のキャンプ長を決めて、翌年はその新キャンプ長が仕切ってまた次に託す、というふうにして続けられてきました。ご存じかどうか、今ではもう学童保育はあって当然の制度のように思われているけれど、最初は働く親たちが場所も指導員も自分たちで確保するところから始まったのです。手づくりのこのキャンプには今でもそんな草創期の息吹が残っている気がします。年度輪切りではなく縦に人がつながって続いてきたから、OB・OGになっても来てくれるひと(親子)がたくさんいるし、それこそ草創の頃からの古い指導員の先生が遊びに来てくださることもあったのです。

 ―「作戦会議」に戻って、最初の会の活動について教えてください。

2001年12月に開催された最初のイベントのプログラム(左) と、それから12年後、2013年の『なつまつり』のポスター

 鈴木 はい。僕たちがそこでまず確認したのは、僕たちは“子どもたちのために”やるのではなく、“僕たち自身が”(僕たち自身も)やりたいと思うことをやろう、ということでした。なにかを「ためにしている」大人と、自分でもそれが「したくてしている」大人との違いが、子どもたちには匂いでわかります。そこで(PTAだよりを通して)子どもたちに、《ぼくたちはきみたちといっしょに、こんなことがしてみたい・こんなこともできるのではないかとおもいます──きみたちはなにがしたい?どんなことができたらとおもう?》とボールを投げ、返ってきたボールをもとにプログラムを組んで、2001年12月、最初のイベント『いっしょにあそぼう!かたぐるまの会』の開催にこぎつけたのでした。

「かたぐるまの会」という名前は、名乗りとして、と同時にこうした発想から生まれた遊びの集いそのものの名として、メッセージをこめてこのとき僕たちが自身に与えたものです(《この会は、あそぶこころにかけてはきみたちにまけない、六小のおとうさんたちが、きみたちといっしょになってあそびたくて、かたをくんでつくりました》)。

この催しは、いきなりジャンボしゃぼん玉も、紙ヒコーキも、すもうや大なわとびまでやろうという、てんこもりのメニューでしたが、中心のテーマにすえたのは「火」でした:1)火おこしに挑戦し、2)校庭でたき火をやり(これも挑戦です)、3)その火で食べられるものも自分で作ってみよう、と呼びかけたのです。3)は、ねじりん棒(原始パン)をやりました。粉を生地からこねて「へび」にし、それを巻きつけて焼く竹の棒も自分で作ろう……と。

当時はダイオキシン騒ぎで野焼き一般が法律で禁止されるようになり、たき火ひとつ簡単にはできなくなってまだ間もなかった頃でした。その意味でも(CANではなくMAYという意味でも)「火」は、挑戦だったのです。

可笑しかったのは、このたき火で、すっぽりタオルを被り鼻の頭まで真っ黒にして、ひとり黙々と火の番をしてくださった方がいたことです。あまりの様変わりで気がついた参加者はほとんどいなかったようですが、なんとそれがこのときの六小の校長先生その人でした。先生はまさに黒衣に徹して、陰ながらエールを送ってくださったのでしょう。

―最初期のメンバーには、図工専科の先生もいらしたとか。

 

『なつまつり』で行進する六小ねぶた(写真は2011年) 子どもたちと一緒に1ヶ月かけて「遊びの学校」で作る

 鈴木 ええ、金子光雄先生は、文字どおり同志として10人のさむらいの一人になってくださいました。その前の年に開催された「先生と話そう会」で僕と先生は、「学校でなにか一緒にやれるといいね」と話をしていたのです。設備や道具も含めて学校内部に精通されていた先生が仲間に加わってくださったことは大きな力になりました。道具もそろい、校庭にすぐ出て行くこともできる図工室は僕たちにとってまさに理想の作戦基地でした。のちに実現した「遊びの学校」※の原案を描かれたのも、金子先生です。
※遊びの学校については後述

―最初のイベントは参加者は何人くらいだったのですか?

 鈴木 親子合わせて約180名でした。今からみればずいぶん小さなパーティでしたが、考えてもみてください、たった10人の悪童たちが仕掛けた「校庭で思いっきり遊んでみよう!」という呼びかけに、これだけの数の(今の、そして今は昔の)子どもたちが応えて遊び仲間になってくれたのです。こんなにうまくいくと思わなかったというと嘘になるけど(だってそのために作戦を練ったのだから)大成功だと僕たちは思いました。「思った」というより「体で感じた」といったほうが正確かもしれません。最後の後片付けを終えたあと覚えた深い充足感──虚脱感にも似た「完全燃焼」の感覚──は今でも忘れられません。なによりそれが味わいたくて僕たちはこんな会を性懲りなく続けてきたのかもしれない、と思うことさえあります。

―この成功が、翌年3月の第二弾につながった。

 鈴木 はい。第二弾は、その年度のPTAの予算ではもうできないことがわかっていたところへ思いがけず市からお誘いがあって、教育委員会の『地域で遊ぶ』という企画に乗って実現した催しでした。形の上では「協力」ですが、実質はイベント名も『竹であそぼう!かたぐるまの会』を名乗らせてもらい、ひさしを借りて何とやら、竹ポックリ・竹馬から、竹の楽器、バウムクーヘンまで、存分に遊ばせていただきました。参加者はこのときも約180名でした。

…そうか。“三段跳び”だったんだ。12月の最初のイベントが“ホップ”、3月のこの『竹』が“ステップ”、そして7月に“ジャンプ”。こうして振り返ると、今に続く『なつまつり』はこの三段跳びから始まったことにいま僕も気がつきました。この弾みがあったから今がある。いまなお季節が来ると、もっと遠くまで跳びたいと体が疼いてしまう僕たちがある……。

―なるほど。2002年度は「ジャンプの年」だったのですね。夏休みに入ってすぐの『なつまつり』も、年明け新年の『春よこい』もこの年に花開いた……。

 鈴木 そうですね。かたぐるまの会はこの年に正式に六小のPTAの一実行委員会となって、ここから年単位の活動が始まりました。幸運というものがあるとすれば、この年に僕たちが二人の女性に巡りあえたこともそうだったのかもしれません。一人は新任の校長先生、秋本光代さん。もう一人は新しいPTA会長さんでした。

『なつまつり』で挨拶する鈴木さん(中央)

『なつまつり』は、「盆踊り…できないかな?」というこの沖縄出身の会長さんからいただいたアイデアを僕たちがゼロから組み直して出した回答です。かたぐるまの会は、「オヤジの会」というより今の時代の「青年団」ではないか。そう僕が考え始めたのもこのときからでした。《地域は創りだすもの》:会の当時のHPに僕が掲げたこのコピー文にも、その思いがこめられています。

梅雨明けとぴったり重なった7月20日の『なつまつり』は、64人が参加した前座のベイブレード大会から、400人超が入場した最後の「夜の学校探検」まで、通してじつに900人。大成功を収めました。一番人気となったこの「探検」は夜の校舎を使った肝だめしですが、その相談に校長室を訪れたときのことです。僕が「ワン・フロアーでいいからお借りできませんか」と伺いを立てると、なんと秋本先生のほうから「どうして?三階とも全部使ったらいいじゃないの。そのほうが楽しいでしょう?」と即答で逆提案されてしまいました。ちょっとすごいでしょう。

―たしかに。さっきの「火」でも少し前の「ナイフ」でも、それが問題になると、「何かあっては大変だから」という理由でそれそのものの使用を禁止してしまう風潮が最近は強くなってきていることを考えると、学校のトップである校長先生がそんな姿勢をとってくださるのは、なかなかできないことですね。

 鈴木 ええ。あとで知ったのですが、秋本先生は常日頃から「長たる者の役割は、“何かあったらその責任は私がとるから”と現場の人たちを励ましてなにかができるようにすることだ」と心得ておられました。だから即答されたのです。

もうひとつ例を挙げましょう。僕たちはこのお祭りを、これに参加する人たち全員が(子どもたちも保護者や地域の人たちも)「遊び仲間」になる──自分たちでつくり・自分たちでそれを楽しむ(「お客さん」になってしまう人のいない)──催しにしたいと最初から考えていたので、子どもたち自身が主役になれる「こどもリサイクル・マーケット」をメニューの一つに加えました。でもじつはこれは、PTA本部の人たちも一緒に開いた「なつまつり委員会」の内部、僕たちの中でも賛否両論真っ二つに割れて、最後は僕の責任で決断を下したのです。

その模様を先生に校庭を一緒に歩きながらお聞かせして(先生はウンウンとうなずくだけで何もおっしゃいませんでした)それからまもなくのことです。PTAの保護者たちに向けた『六小だより』に先生が寄せられた一文を目にして僕は思わず唸ってしまいました。なんて粋な計らいをなさるのでしょう。あんまり素晴らしい文章なので、一人で読むのがもったいなくて、先生の了解を得て僕はこれを会の当時のHPに上げました。みなさんもどうぞ読んでください。先生も転載を許してくだいました。

遊ぶ心×礼を尽くす

―「かたぐるまの会」は、2014年の12月でもう14年目になりますね。ここまで続けて来られた秘密(秘訣)は、いったいどこにあったのでしょう?

 鈴木 うーん。ひとことでいえば「発意」かな。なにかがやりたいっていう思い。このたいがなければ何も生まれない。でも、いちばん微妙なのはそこかもしれませんね。僕たちはみんな、やりたくて始めたことが、いつのまにかやらねばならないお仕事や重荷に変わってしまうこともあれば、反対にやらねばならなくて始めたことが、どこかで喜びのたねに変わって、こちらからそれがやりたくなっている自分に気がつくこともあるように、ひとすじなわでは潮目の読めない情動の波に乗って舟を漕いでいるところがあります。

「ボランティア」という、もとは強い“自発的な意欲”を表す言葉が、どこかで“奉仕”のニュアンスに転じてしまったり、そうかと思えば、もとは強い“奉仕”“おつとめ”を意味した「サービス」という言葉(「ミリタリー・サービス」は軍のおつとめ、兵役のことです)が、いつか主客転倒して“ありがたい便益”を表すようになったのも、そんな波間に揉まれてのことだったでしょう。

学童のキャンプもそうでしたが、この会がこんなに長続きしてきた秘密は、何の理屈もなしにただ、自分が楽しいからやる、やりたいからやる、それだけという姿勢に徹してきたことにあったと僕は思っています。「遊ぶ心」ですね。僕たちは頑固なまでにこの自発の心からの出発にこだわった。

今でこそもうお祭りは僕たちだけのものではないのでそんなことはしなくなりましたが、5年目くらいまでは毎年年度初めに、今年もやりたいかどうか、メンバー全員の意思を確認してから始動していたほどです。毎回が初回。それがルーチンやお仕事になってしまったら、もう解散しよう、そう思っていました。いや、今でもその気持ちに変わりはありません。

―なんともいさぎよい。でもその潔さこそが、この会がここまで続いてきた秘密(秘訣)ではないか。そう、鈴木さんはおっしゃりたいのですね。ではそうやって会を続けていくうえで、鈴木さんがいちばん大切にされていることは何なのでしょう?

 鈴木 人は社会をつくりそのなかで生きています。ではその社会で人が他の人を動かすにはどんな方法があるか考えてみてください。①力ずくで、あるいは命令によって、そうさせる。②お金で(得をするから)そうしたくなるように仕向ける。③もう一つあるのですが、何だかわかりますか?──いちばん普通で、いちばん無理がないので、たいていの場合僕たちはその方法をとっているのに、あたりまえすぎて自分でもそのことに気がつかない。あらためて思えばこれは不思議な方法です。①力も、②お金も使わないのに、③この方法をとれば、相手は気持ちよく、喜んで、自分から(自分でもそれがどうしてかはよくわからずに)そうしてくれるのだから。謎をかけるような話し方をしてごめんなさい。③これが、今僕があなたと話しているときにも使っている魔法:言葉ではないだろうか。言葉というだけでは足りません。言葉を用いて礼を尽くすこと、これですね。これが人を動かす。子どもたちのゲームの世界のアイテムにも、①「ちから」と②「おかね」のほかに、③ほらもう一つ、あるでしょう?

―……「じゅもん(呪文)」!……。そうか、魔法の言葉ですね。

 鈴木 そうです。この魔法を孔子は「礼(禮)」と呼びました。儀礼・礼儀の「礼」ですね。儒教の「儒」は、「雨乞い」の呪術にたずさわる巫祝(フシュク)の徒という意味です。最初は蔑称だった。「礼(禮)」の字の左側、「示(シメス)」偏の「示」も、神を祭るときの祭卓(サイタク)を表す、もとは象形文字でした。

聖なる儀礼、貶めていえば「おまじないの呪術」を表すこの「礼」という言葉を用いて、孔子は、人と人との間で働いているこの不思議な魔法の存在に人々を気づかせよう、人々みずからがそれに気がつくようにさせようとしたのだと僕は思っています。

僕たちが毎回まつりの前にはお便りを出してみんなに参加を呼びかけ、それが終わると報告のお便りを出すのも、根本はそれが「礼」だからですね。この「礼を尽くす」こと。みんなになにかを「やらせる」のではなく、みんな自身の底にもじつはある「やりたい」という気持ちをていねいに拾い集めて、なにかが「できる」ようにしていくこと。難しいけれど、これは言葉でしかできない。かたぐるまの会を続けていくうえで何がいちばん大事と僕が思っているかといわれれば、「礼」:これに尽きるのではないかと思います。

―すみません、初めは言葉は悪いけれど“やんちゃ坊主”たちが始めた、ただの「遊びの広場」の話だと思って伺っていたら、突然「礼」という言葉が飛び出して、なんだかそれこそ魔法にかけられたような気がします。自由な「遊び」と厳粛な「礼」:180度ちがうようにもみえるこの二つは、いったいどこでどうつながるのでしょう?

 鈴木 「お祭り」という場がまさにそれだとは思いませんか。「礼」は必ず慣習化します。しきたりになり毎度おなじみのルーチン・ワークになっていきます。古くなる、というより最初から古いのが「礼」かもしれませんね。その古さが僕たちを安心させる。そのほうが楽だから従ってしまう。でも万事、そればっかりになってしまうと……

―……今度はつまらなくなってしまう。なんで自分がそんなことをしているのかわからなくなってしまう。

 鈴木 そのとおりです。なにかがしたいという思いが原動力となって僕たちは社会をつくって動いているのに、古びるといつかそれが忘れ去られてしまう。だから、さっきの呪文ではないけれど《ひらけごま!》、太古の昔から人の社会は「お祭り」を開いて、「礼」をリセットすることを繰り返してきたのでしょう。放っておけばたちまち自動化し・固定化して、古くなっていってしまう毎日の生活に、つかのま“非日常”の祝祭の空間を開いて、その命を取り戻させること。「お祭り」のもつ深い意味はそこにあります。そして、このときに働いて僕たちをそこへと衝き動かすもの、これが「遊ぶ心」ではないかと僕は思うのです。

「遊び」は一見、余分なこと、無駄なことに見える。でも機械にだって「遊び」はあります。遊びのない機械は、すぐに動かなくなってしまう……。
僕の敬愛する白川静さんに《遊ぶのは、神が遊ぶのである》というすごい言葉があります(『文字逍遥』平凡社ライブラリー)。子どもたちが遊ぶのも、あれはきっと彼らが神さまだからですね。

And so on

―もう一つ、お聞きしたいと思っていたことがありました。「かたぐるまの会」は六小PTAの中の実行委員会の一つとして活動を開始したわけですが、3年後の2005年にはその外に出て、地域の一任意団体となって活動を続けています。何がそうさせたのでしょう?私たちにはいまひとつわかりにくい、この会とPTAとの関わりについて話していただけますか。

 鈴木 わかりました、事の初めからもういちど振り返ってみましょう。この会は、六小というはらっぱと、そこでの人のつながり(PTA)を産みの親として生まれました。ところがこの子はとんでもない“やんちゃ坊主”で、PTAの枠には収まりそうもない“鬼っ子”だった。ではどうしたらこの子を、その魂の鬼っ子さを失わせずに育てていくことができるか。そう考えた末に僕たちが見つけたいちばん自然な答えが、地域に重心を移し、縁の下の力持ちになって、六小での遊びを持続的に支えていく道だったのだと思います。

そもそもが僕たちの開いた「遊びの輪」は、PTAの「親子お楽しみ会」と見かけは似ていてもそれとは別のものでした。お楽しみ会は、「輪」(学年やクラス)のほうが先にあってそっちから「遊び」がつかまれています。これは内に閉じた輪で、立場や役割のほうが先行しているから、親は親、子は子としてそこに入ってきます。

僕たちがやろうとしたのはこれとはまったく逆のこと、「遊び」のほうからその「輪」をつくりだすことでした。遊びたいという思いには大人も子どももありません。はらっぱに出て《いっしょにあそぼう!》の声を挙げたのは、僕たちの中の子どもの心。その心(遊ぶ心)が、誰もの底に眠る子どもの心に呼びかけたのでした。ここではみんなが子どもになる。対等の遊び仲間になる。そんな遊びの輪を僕たちは開こうとした。外に開く輪ですね。

だから僕たちは旗を揚げたときから、これは単発の打ち上げ花火で終わってはならないと思っていました。開いて生まれるこの輪は、それを開き続けることができなければ意味がないからです。

―PTAを出る前から、最初から、この会は外(学校の外:「地域」)に向かって開かれていたということですね。そして、会が外に出ると同時に、六小PTAの中には、あらためて(現役のお父さん・お母さんたちが作る)「遊びの学校」という実行委員会が誕生して、その活動を引き継ぐ体制をとるようになった。

 

『春よこい』のおもちつき:チームでついてチームをつくります。

 鈴木 そのとおりです。ただ「遊びの学校」という活動のメニュー自体は、かたぐるまの会がまだPTAの一実行委員会だったときからすでに始まっていました。おまつりやイベントとはちがうかたちで、もっと日常のなかにも小さな非日常の場を持続的につくりだしていきたいと僕たちは思ったのです。それこそ子どもの頃僕たちが毎日のようにそこに出て遊んだ、はらっぱのような空間を。地域の真ん中にあって、子どもたちがそこに通いそこで育っていく学校は、今の時代に残された数少ない、はらっぱになる可能性を秘めた場所の一つではないだろうか。ここがなければこんな会は生まれなかった。でもそこで終わってしまうようなら、この会の今はありませんでした。

ではどうしたら、空間的にも(横にも)・時間的にも(縦にも)閉じてしまわずに、延びていけるような仕組みが作れるか。そんなおよそPTA的ではない悪童たちの野望が結んだ実が「かたぐるまの会」であり、種として残したのが「遊びの学校」であると考えれば、今のこの二重構造の体制のもつ意味もわかっていただけるのではないでしょうか。この会は徹頭徹尾、「子どもの会」なのですね。子どもだから、僕たち自身も一緒に大きくなります。年をとります。つい先ごろも、会のお母さんの一人(最近はお母さんたちも増えています)が洩らした「私たちって“大人の幼なじみ”だね……」という感慨の言葉に、言い得て妙と一同思わずうなずいてしまったところです。

―今後の夢、やりたいことなどがあれば教えてください。

 鈴木 今後の夢はいろいろありますが、近くに一軒、無料で家を貸してくれる人がいたらうれしいな。僕たちも高齢になっていくし、そしたら介護も兼ねたかたぐるまの家みたいなのができたらいいなと考えたりしています。僕たちは基本、収益になることはしていないので無料で家を貸してくれる人を見つけるのは難しいかもしれませんが……。それから今、会のメンバーが美術系の人に偏っているので、今後は音楽もやれるといいなとか「発酵クラブ」を作っていろんなもの(人も含めて?)を発酵させたいなとか、いろいろ考えています。

鈴木さんのぶんハピ 国分寺歴 16年

地域のはらっぱ、六小の校庭

六小の校庭はそこに行くと誰かに会える。一緒に遊ぶこともできる。
人とつながる場所、地域の真ん中にひらいた「はらっぱ」です。
そこへ行けば、予想もしない、思いがけない出会いが生まれる場所なのでハッピーになります。

かたぐるまの会
https://www.facebook.com/katagurumanokai

 

インタビューを終えて

娘と息子が、六小に通っていたので鈴木さんのことは、以前からよく知っていたのですが、今回のインタビューで、初めてゆっくりといろいろなお話をすることが出来ました。ここでは残念ながら紹介できませんでしたが、鈴木さんの若き日の意外な一面?も知ることができ、予定した時間はあっという間に過ぎました。鈴木さんが大事にしている孔子の教えである「礼を尽くす」を体現するように言葉を尽くされたインタビューでした。ここ数年、かたぐるまの会主催のなつまつりですっかりお世話になっている私たちCHEERSですが、今後は、かたぐるまの会と一緒に何かイベントを企画できたらといいなと思っています。遊びから地域を創出するかたぐるまの会の輪が国分寺全体に広がっていくよう会の活動に期待大です。鈴木さん、今後ともよろしくお願いします♪

 

  取材:CHEERS