第5回 鈴木雅大さん かたぐるまの会 元代表

第5回目は、国分寺市第六小学校を拠点にお祭りを開いてきた「かたぐるまの会」の元代表、鈴木雅大(がだい)さんです。地域の真ん中にあって子どもたちが通う学校は、今の時代に残された「はらっぱ」ではないだろうかと語る鈴木さん。子どもたちとその保護者が地域の人たちと一つ輪になって、手づくりで毎年開いてきたお祭りは、夏の縁日には1200人、春のもちつきには800人がコンスタントに集まる、今では地域恒例の行事に育っています。そんな祭りを興したこの会がどうやって生まれ、これからどこへ向かおうとしているのか、伺いました。

鈴木雅大さんのプロフィール

東京都出身。大学でフランス語を教える。2児の父。「かたぐるまの会」の発起人で、この春(2013年度)までその代表を務めていた。「北町公園をみまもる会(※)」世話人。「国分寺であそぶKAI(※)」にも発足から関わる。

(※1)「北町公園をみまもる会」:設計段階から市民参加で誕生した公園を“育てて”いくことを通して自分たち(地域みずから)も“育つ”ことを願って生まれた会。周年祭『春のきたまち』の主催者。

(※)「国分寺であそぶKAI」:市の北側にも「もうひとつ“プレイ・ステーション(冒険遊び場の拠点)を”の署名活動から始まった、子どもたちの外遊びを推進する運動体。『ワイルドにあそぼう!』主催者。

 

だれでも、やりたいからやる、そこからしか始まらない

 ―かたぐるまの会は、いつ・どうやって生まれたのですか。

 鈴木さん(以下、敬称略) 2001年、今の学校の週完全5日制が始まった年の秋のことです。(六小の)PTA会長さんから「お父さんたちで何かできないか」と持ちかけられ、ではひとつやってみましょうかと呼び集めた最初は10人のさむらいの「作戦会議」からこの会は始まりました。核となったのはこの年僕がキャンプ長を務めたしんまち学童のサマーキャンプでした。10人中7人までがその仲間だったというだけではありません。発想から組織の作り方にいたるまで、すべての母胎はこの学童のキャンプにあったのではないかと思っています。

 ― 学童というのは学童保育所のことですね。

 鈴木 そうです。学童にもPTAと同じ父母の会というのがあって、サマーキャンプも形のうえではその行事のひとつなのですが、これだけは年度ごとに役員が切り替わるPTAとはちがい、毎年その年のキャンプで次のキャンプ長を決めて、翌年はその新キャンプ長が仕切ってまた次に託す、というふうにして続けられてきました。ご存じかどうか、今ではもう学童保育はあって当然の制度のように思われているけれど、最初は働く親たちが場所も指導員も自分たちで確保するところから始まったのです。手づくりのこのキャンプには今でもそんな草創期の息吹が残っている気がします。年度輪切りではなく縦に人がつながって続いてきたから、OB・OGになっても来てくれるひと(親子)がたくさんいるし、それこそ草創の頃からの古い指導員の先生が遊びに来てくださることもあったのです。

 ―「作戦会議」に戻って、最初の会の活動について教えてください。

2001年12月に開催された最初のイベントのプログラム(左) と、それから12年後、2013年の『なつまつり』のポスター

 鈴木 はい。僕たちがそこでまず確認したのは、僕たちは“子どもたちのために”やるのではなく、“僕たち自身が”(僕たち自身も)やりたいと思うことをやろう、ということでした。なにかを「ためにしている」大人と、自分でもそれが「したくてしている」大人との違いが、子どもたちには匂いでわかります。そこで(PTAだよりを通して)子どもたちに、《ぼくたちはきみたちといっしょに、こんなことがしてみたい・こんなこともできるのではないかとおもいます──きみたちはなにがしたい?どんなことができたらとおもう?》とボールを投げ、返ってきたボールをもとにプログラムを組んで、2001年12月、最初のイベント『いっしょにあそぼう!かたぐるまの会』の開催にこぎつけたのでした。

「かたぐるまの会」という名前は、名乗りとして、と同時にこうした発想から生まれた遊びの集いそのものの名として、メッセージをこめてこのとき僕たちが自身に与えたものです(《この会は、あそぶこころにかけてはきみたちにまけない、六小のおとうさんたちが、きみたちといっしょになってあそびたくて、かたをくんでつくりました》)。

この催しは、いきなりジャンボしゃぼん玉も、紙ヒコーキも、すもうや大なわとびまでやろうという、てんこもりのメニューでしたが、中心のテーマにすえたのは「火」でした:1)火おこしに挑戦し、2)校庭でたき火をやり(これも挑戦です)、3)その火で食べられるものも自分で作ってみよう、と呼びかけたのです。3)は、ねじりん棒(原始パン)をやりました。粉を生地からこねて「へび」にし、それを巻きつけて焼く竹の棒も自分で作ろう……と。

当時はダイオキシン騒ぎで野焼き一般が法律で禁止されるようになり、たき火ひとつ簡単にはできなくなってまだ間もなかった頃でした。その意味でも(CANではなくMAYという意味でも)「火」は、挑戦だったのです。

可笑しかったのは、このたき火で、すっぽりタオルを被り鼻の頭まで真っ黒にして、ひとり黙々と火の番をしてくださった方がいたことです。あまりの様変わりで気がついた参加者はほとんどいなかったようですが、なんとそれがこのときの六小の校長先生その人でした。先生はまさに黒衣に徹して、陰ながらエールを送ってくださったのでしょう。

―最初期のメンバーには、図工専科の先生もいらしたとか。

 

『なつまつり』で行進する六小ねぶた(写真は2011年) 子どもたちと一緒に1ヶ月かけて「遊びの学校」で作る

 鈴木 ええ、金子光雄先生は、文字どおり同志として10人のさむらいの一人になってくださいました。その前の年に開催された「先生と話そう会」で僕と先生は、「学校でなにか一緒にやれるといいね」と話をしていたのです。設備や道具も含めて学校内部に精通されていた先生が仲間に加わってくださったことは大きな力になりました。道具もそろい、校庭にすぐ出て行くこともできる図工室は僕たちにとってまさに理想の作戦基地でした。のちに実現した「遊びの学校」※の原案を描かれたのも、金子先生です。
※遊びの学校については後述

―最初のイベントは参加者は何人くらいだったのですか?

 鈴木 親子合わせて約180名でした。今からみればずいぶん小さなパーティでしたが、考えてもみてください、たった10人の悪童たちが仕掛けた「校庭で思いっきり遊んでみよう!」という呼びかけに、これだけの数の(今の、そして今は昔の)子どもたちが応えて遊び仲間になってくれたのです。こんなにうまくいくと思わなかったというと嘘になるけど(だってそのために作戦を練ったのだから)大成功だと僕たちは思いました。「思った」というより「体で感じた」といったほうが正確かもしれません。最後の後片付けを終えたあと覚えた深い充足感──虚脱感にも似た「完全燃焼」の感覚──は今でも忘れられません。なによりそれが味わいたくて僕たちはこんな会を性懲りなく続けてきたのかもしれない、と思うことさえあります。

―この成功が、翌年3月の第二弾につながった。

 鈴木 はい。第二弾は、その年度のPTAの予算ではもうできないことがわかっていたところへ思いがけず市からお誘いがあって、教育委員会の『地域で遊ぶ』という企画に乗って実現した催しでした。形の上では「協力」ですが、実質はイベント名も『竹であそぼう!かたぐるまの会』を名乗らせてもらい、ひさしを借りて何とやら、竹ポックリ・竹馬から、竹の楽器、バウムクーヘンまで、存分に遊ばせていただきました。参加者はこのときも約180名でした。

…そうか。“三段跳び”だったんだ。12月の最初のイベントが“ホップ”、3月のこの『竹』が“ステップ”、そして7月に“ジャンプ”。こうして振り返ると、今に続く『なつまつり』はこの三段跳びから始まったことにいま僕も気がつきました。この弾みがあったから今がある。いまなお季節が来ると、もっと遠くまで跳びたいと体が疼いてしまう僕たちがある……。

―なるほど。2002年度は「ジャンプの年」だったのですね。夏休みに入ってすぐの『なつまつり』も、年明け新年の『春よこい』もこの年に花開いた……。

 鈴木 そうですね。かたぐるまの会はこの年に正式に六小のPTAの一実行委員会となって、ここから年単位の活動が始まりました。幸運というものがあるとすれば、この年に僕たちが二人の女性に巡りあえたこともそうだったのかもしれません。一人は新任の校長先生、秋本光代さん。もう一人は新しいPTA会長さんでした。

『なつまつり』で挨拶する鈴木さん(中央)

『なつまつり』は、「盆踊り…できないかな?」というこの沖縄出身の会長さんからいただいたアイデアを僕たちがゼロから組み直して出した回答です。かたぐるまの会は、「オヤジの会」というより今の時代の「青年団」ではないか。そう僕が考え始めたのもこのときからでした。《地域は創りだすもの》:会の当時のHPに僕が掲げたこのコピー文にも、その思いがこめられています。

梅雨明けとぴったり重なった7月20日の『なつまつり』は、64人が参加した前座のベイブレード大会から、400人超が入場した最後の「夜の学校探検」まで、通してじつに900人。大成功を収めました。一番人気となったこの「探検」は夜の校舎を使った肝だめしですが、その相談に校長室を訪れたときのことです。僕が「ワン・フロアーでいいからお借りできませんか」と伺いを立てると、なんと秋本先生のほうから「どうして?三階とも全部使ったらいいじゃないの。そのほうが楽しいでしょう?」と即答で逆提案されてしまいました。ちょっとすごいでしょう。

―たしかに。さっきの「火」でも少し前の「ナイフ」でも、それが問題になると、「何かあっては大変だから」という理由でそれそのものの使用を禁止してしまう風潮が最近は強くなってきていることを考えると、学校のトップである校長先生がそんな姿勢をとってくださるのは、なかなかできないことですね。

 鈴木 ええ。あとで知ったのですが、秋本先生は常日頃から「長たる者の役割は、“何かあったらその責任は私がとるから”と現場の人たちを励ましてなにかができるようにすることだ」と心得ておられました。だから即答されたのです。

もうひとつ例を挙げましょう。僕たちはこのお祭りを、これに参加する人たち全員が(子どもたちも保護者や地域の人たちも)「遊び仲間」になる──自分たちでつくり・自分たちでそれを楽しむ(「お客さん」になってしまう人のいない)──催しにしたいと最初から考えていたので、子どもたち自身が主役になれる「こどもリサイクル・マーケット」をメニューの一つに加えました。でもじつはこれは、PTA本部の人たちも一緒に開いた「なつまつり委員会」の内部、僕たちの中でも賛否両論真っ二つに割れて、最後は僕の責任で決断を下したのです。

その模様を先生に校庭を一緒に歩きながらお聞かせして(先生はウンウンとうなずくだけで何もおっしゃいませんでした)それからまもなくのことです。PTAの保護者たちに向けた『六小だより』に先生が寄せられた一文を目にして僕は思わず唸ってしまいました。なんて粋な計らいをなさるのでしょう。あんまり素晴らしい文章なので、一人で読むのがもったいなくて、先生の了解を得て僕はこれを会の当時のHPに上げました。みなさんもどうぞ読んでください。先生も転載を許してくだいました。

遊ぶ心×礼を尽くす

―「かたぐるまの会」は、2014年の12月でもう14年目になりますね。ここまで続けて来られた秘密(秘訣)は、いったいどこにあったのでしょう?

 鈴木 うーん。ひとことでいえば「発意」かな。なにかがやりたいっていう思い。このたいがなければ何も生まれない。でも、いちばん微妙なのはそこかもしれませんね。僕たちはみんな、やりたくて始めたことが、いつのまにかやらねばならないお仕事や重荷に変わってしまうこともあれば、反対にやらねばならなくて始めたことが、どこかで喜びのたねに変わって、こちらからそれがやりたくなっている自分に気がつくこともあるように、ひとすじなわでは潮目の読めない情動の波に乗って舟を漕いでいるところがあります。

「ボランティア」という、もとは強い“自発的な意欲”を表す言葉が、どこかで“奉仕”のニュアンスに転じてしまったり、そうかと思えば、もとは強い“奉仕”“おつとめ”を意味した「サービス」という言葉(「ミリタリー・サービス」は軍のおつとめ、兵役のことです)が、いつか主客転倒して“ありがたい便益”を表すようになったのも、そんな波間に揉まれてのことだったでしょう。

学童のキャンプもそうでしたが、この会がこんなに長続きしてきた秘密は、何の理屈もなしにただ、自分が楽しいからやる、やりたいからやる、それだけという姿勢に徹してきたことにあったと僕は思っています。「遊ぶ心」ですね。僕たちは頑固なまでにこの自発の心からの出発にこだわった。

今でこそもうお祭りは僕たちだけのものではないのでそんなことはしなくなりましたが、5年目くらいまでは毎年年度初めに、今年もやりたいかどうか、メンバー全員の意思を確認してから始動していたほどです。毎回が初回。それがルーチンやお仕事になってしまったら、もう解散しよう、そう思っていました。いや、今でもその気持ちに変わりはありません。

―なんともいさぎよい。でもその潔さこそが、この会がここまで続いてきた秘密(秘訣)ではないか。そう、鈴木さんはおっしゃりたいのですね。ではそうやって会を続けていくうえで、鈴木さんがいちばん大切にされていることは何なのでしょう?

 鈴木 人は社会をつくりそのなかで生きています。ではその社会で人が他の人を動かすにはどんな方法があるか考えてみてください。①力ずくで、あるいは命令によって、そうさせる。②お金で(得をするから)そうしたくなるように仕向ける。③もう一つあるのですが、何だかわかりますか?──いちばん普通で、いちばん無理がないので、たいていの場合僕たちはその方法をとっているのに、あたりまえすぎて自分でもそのことに気がつかない。あらためて思えばこれは不思議な方法です。①力も、②お金も使わないのに、③この方法をとれば、相手は気持ちよく、喜んで、自分から(自分でもそれがどうしてかはよくわからずに)そうしてくれるのだから。謎をかけるような話し方をしてごめんなさい。③これが、今僕があなたと話しているときにも使っている魔法:言葉ではないだろうか。言葉というだけでは足りません。言葉を用いて礼を尽くすこと、これですね。これが人を動かす。子どもたちのゲームの世界のアイテムにも、①「ちから」と②「おかね」のほかに、③ほらもう一つ、あるでしょう?

―……「じゅもん(呪文)」!……。そうか、魔法の言葉ですね。

 鈴木 そうです。この魔法を孔子は「礼(禮)」と呼びました。儀礼・礼儀の「礼」ですね。儒教の「儒」は、「雨乞い」の呪術にたずさわる巫祝(フシュク)の徒という意味です。最初は蔑称だった。「礼(禮)」の字の左側、「示(シメス)」偏の「示」も、神を祭るときの祭卓(サイタク)を表す、もとは象形文字でした。

聖なる儀礼、貶めていえば「おまじないの呪術」を表すこの「礼」という言葉を用いて、孔子は、人と人との間で働いているこの不思議な魔法の存在に人々を気づかせよう、人々みずからがそれに気がつくようにさせようとしたのだと僕は思っています。

僕たちが毎回まつりの前にはお便りを出してみんなに参加を呼びかけ、それが終わると報告のお便りを出すのも、根本はそれが「礼」だからですね。この「礼を尽くす」こと。みんなになにかを「やらせる」のではなく、みんな自身の底にもじつはある「やりたい」という気持ちをていねいに拾い集めて、なにかが「できる」ようにしていくこと。難しいけれど、これは言葉でしかできない。かたぐるまの会を続けていくうえで何がいちばん大事と僕が思っているかといわれれば、「礼」:これに尽きるのではないかと思います。

―すみません、初めは言葉は悪いけれど“やんちゃ坊主”たちが始めた、ただの「遊びの広場」の話だと思って伺っていたら、突然「礼」という言葉が飛び出して、なんだかそれこそ魔法にかけられたような気がします。自由な「遊び」と厳粛な「礼」:180度ちがうようにもみえるこの二つは、いったいどこでどうつながるのでしょう?

 鈴木 「お祭り」という場がまさにそれだとは思いませんか。「礼」は必ず慣習化します。しきたりになり毎度おなじみのルーチン・ワークになっていきます。古くなる、というより最初から古いのが「礼」かもしれませんね。その古さが僕たちを安心させる。そのほうが楽だから従ってしまう。でも万事、そればっかりになってしまうと……

―……今度はつまらなくなってしまう。なんで自分がそんなことをしているのかわからなくなってしまう。

 鈴木 そのとおりです。なにかがしたいという思いが原動力となって僕たちは社会をつくって動いているのに、古びるといつかそれが忘れ去られてしまう。だから、さっきの呪文ではないけれど《ひらけごま!》、太古の昔から人の社会は「お祭り」を開いて、「礼」をリセットすることを繰り返してきたのでしょう。放っておけばたちまち自動化し・固定化して、古くなっていってしまう毎日の生活に、つかのま“非日常”の祝祭の空間を開いて、その命を取り戻させること。「お祭り」のもつ深い意味はそこにあります。そして、このときに働いて僕たちをそこへと衝き動かすもの、これが「遊ぶ心」ではないかと僕は思うのです。

「遊び」は一見、余分なこと、無駄なことに見える。でも機械にだって「遊び」はあります。遊びのない機械は、すぐに動かなくなってしまう……。
僕の敬愛する白川静さんに《遊ぶのは、神が遊ぶのである》というすごい言葉があります(『文字逍遥』平凡社ライブラリー)。子どもたちが遊ぶのも、あれはきっと彼らが神さまだからですね。

And so on

―もう一つ、お聞きしたいと思っていたことがありました。「かたぐるまの会」は六小PTAの中の実行委員会の一つとして活動を開始したわけですが、3年後の2005年にはその外に出て、地域の一任意団体となって活動を続けています。何がそうさせたのでしょう?私たちにはいまひとつわかりにくい、この会とPTAとの関わりについて話していただけますか。

 鈴木 わかりました、事の初めからもういちど振り返ってみましょう。この会は、六小というはらっぱと、そこでの人のつながり(PTA)を産みの親として生まれました。ところがこの子はとんでもない“やんちゃ坊主”で、PTAの枠には収まりそうもない“鬼っ子”だった。ではどうしたらこの子を、その魂の鬼っ子さを失わせずに育てていくことができるか。そう考えた末に僕たちが見つけたいちばん自然な答えが、地域に重心を移し、縁の下の力持ちになって、六小での遊びを持続的に支えていく道だったのだと思います。

そもそもが僕たちの開いた「遊びの輪」は、PTAの「親子お楽しみ会」と見かけは似ていてもそれとは別のものでした。お楽しみ会は、「輪」(学年やクラス)のほうが先にあってそっちから「遊び」がつかまれています。これは内に閉じた輪で、立場や役割のほうが先行しているから、親は親、子は子としてそこに入ってきます。

僕たちがやろうとしたのはこれとはまったく逆のこと、「遊び」のほうからその「輪」をつくりだすことでした。遊びたいという思いには大人も子どももありません。はらっぱに出て《いっしょにあそぼう!》の声を挙げたのは、僕たちの中の子どもの心。その心(遊ぶ心)が、誰もの底に眠る子どもの心に呼びかけたのでした。ここではみんなが子どもになる。対等の遊び仲間になる。そんな遊びの輪を僕たちは開こうとした。外に開く輪ですね。

だから僕たちは旗を揚げたときから、これは単発の打ち上げ花火で終わってはならないと思っていました。開いて生まれるこの輪は、それを開き続けることができなければ意味がないからです。

―PTAを出る前から、最初から、この会は外(学校の外:「地域」)に向かって開かれていたということですね。そして、会が外に出ると同時に、六小PTAの中には、あらためて(現役のお父さん・お母さんたちが作る)「遊びの学校」という実行委員会が誕生して、その活動を引き継ぐ体制をとるようになった。

 

『春よこい』のおもちつき:チームでついてチームをつくります。

 鈴木 そのとおりです。ただ「遊びの学校」という活動のメニュー自体は、かたぐるまの会がまだPTAの一実行委員会だったときからすでに始まっていました。おまつりやイベントとはちがうかたちで、もっと日常のなかにも小さな非日常の場を持続的につくりだしていきたいと僕たちは思ったのです。それこそ子どもの頃僕たちが毎日のようにそこに出て遊んだ、はらっぱのような空間を。地域の真ん中にあって、子どもたちがそこに通いそこで育っていく学校は、今の時代に残された数少ない、はらっぱになる可能性を秘めた場所の一つではないだろうか。ここがなければこんな会は生まれなかった。でもそこで終わってしまうようなら、この会の今はありませんでした。

ではどうしたら、空間的にも(横にも)・時間的にも(縦にも)閉じてしまわずに、延びていけるような仕組みが作れるか。そんなおよそPTA的ではない悪童たちの野望が結んだ実が「かたぐるまの会」であり、種として残したのが「遊びの学校」であると考えれば、今のこの二重構造の体制のもつ意味もわかっていただけるのではないでしょうか。この会は徹頭徹尾、「子どもの会」なのですね。子どもだから、僕たち自身も一緒に大きくなります。年をとります。つい先ごろも、会のお母さんの一人(最近はお母さんたちも増えています)が洩らした「私たちって“大人の幼なじみ”だね……」という感慨の言葉に、言い得て妙と一同思わずうなずいてしまったところです。

―今後の夢、やりたいことなどがあれば教えてください。

 鈴木 今後の夢はいろいろありますが、近くに一軒、無料で家を貸してくれる人がいたらうれしいな。僕たちも高齢になっていくし、そしたら介護も兼ねたかたぐるまの家みたいなのができたらいいなと考えたりしています。僕たちは基本、収益になることはしていないので無料で家を貸してくれる人を見つけるのは難しいかもしれませんが……。それから今、会のメンバーが美術系の人に偏っているので、今後は音楽もやれるといいなとか「発酵クラブ」を作っていろんなもの(人も含めて?)を発酵させたいなとか、いろいろ考えています。

鈴木さんのぶんハピ 国分寺歴 16年

地域のはらっぱ、六小の校庭

六小の校庭はそこに行くと誰かに会える。一緒に遊ぶこともできる。
人とつながる場所、地域の真ん中にひらいた「はらっぱ」です。
そこへ行けば、予想もしない、思いがけない出会いが生まれる場所なのでハッピーになります。

かたぐるまの会
https://www.facebook.com/katagurumanokai

 

インタビューを終えて

娘と息子が、六小に通っていたので鈴木さんのことは、以前からよく知っていたのですが、今回のインタビューで、初めてゆっくりといろいろなお話をすることが出来ました。ここでは残念ながら紹介できませんでしたが、鈴木さんの若き日の意外な一面?も知ることができ、予定した時間はあっという間に過ぎました。鈴木さんが大事にしている孔子の教えである「礼を尽くす」を体現するように言葉を尽くされたインタビューでした。ここ数年、かたぐるまの会主催のなつまつりですっかりお世話になっている私たちCHEERSですが、今後は、かたぐるまの会と一緒に何かイベントを企画できたらといいなと思っています。遊びから地域を創出するかたぐるまの会の輪が国分寺全体に広がっていくよう会の活動に期待大です。鈴木さん、今後ともよろしくお願いします♪

 

  取材:CHEERS

 


第4回 角 文喜さん 国分寺おもちゃ病院 院長 

「ぶんハピねっと」が注目する、国分寺の「あの人」にインタビュー。
第4回目は、国分寺おもちゃ病院の院長、角文喜先生。自宅で壊れたおもちゃを無料で修理。今までに修理したおもちゃは1000件以上になる。治癒率は、91%の名医。養護学校教員時代の教材づくり、子どもの遊びについてなどおもちゃを通した興味深いお話を伺いました。

角 文喜さんのプロフィール

北海道小樽市出身。養護学校が義務化になる前に養護学校教員となり、教材づくりを通しておもちゃ修理を経験する。教員時代から「おもちゃ病院」の院長としての活動を始め、養護学校を退職後、専門知識を得たいと専門学校にて電子工学を学び、様々な資格を取得。
おもちゃ病院の活動と並行して重度の障がい児向けに様々なスイッチ教材を考案し、障がい児教育の支援を行っている。

養護学校教員時代、教材としておもちゃと出会う

 ―まずは、おもちゃ病院の活動を始めたきっかけをうかがいたいのですが。おもちゃとの出会いはどんなところからだったのでしょうか?
 角先生(以下、敬称略) 私は、元々知的障がい児の養護学校の教員からスタートしました。私が教員になった時は、養護学校がまだ義務化になる前だったので、教科書も教材もなく教える内容は全て教師に任されていたんですよ。
全てが手探りの状態でした。今から考えると信じられない環境です。それで、一人一人の子どもに合った教材を探す中で見つけたのが“おもちゃ”でした。
学校から教材費の予算はないので、色々安いおもちゃを探しましたね。スーパーの前に露店でおもちゃを売っているおじさんと仲良くなり、段ボールいっぱいに入った壊れたおもちゃをもらってきて、修理して教材に使ったりしました。
一から自分で作ると大変だけれども“おもちゃ”に少し手を加えることでいろいろな教材になりました。だから“おもちゃ”との付き合いは長いですね。

 ―その経験がおもちゃ病院をはじめるきっかけになったんですね。

角 私の場合は、私の経験の延長上にある活動という感じですね。直接のきっかけは、教員時代に新聞で「おもちゃ病院」の紹介記事を読んだことです。
専門的な知識はなく、全くの我流だけれど、今まで壊れたおもちゃを修理して教材を作ってきた経験があったので、私にも出来そうな活動だと思いました。おもちゃ病院の活動をしているところへ連絡し、夏休みなどを利用して活動に参加し、色々教えてもらっていました。

―定年後ではなく教員時代から既におもちゃ病院の活動を始めていたということですか?

角 そうですね。自宅だと曜日に関係なく出来るから「取りあえず開いちゃおう」と教員をやめる前から活動を始めました。教員時代の最後の方ですが、施設の訪問教育をやっていたので、施設の中で使う教材のおもちゃを治すこともしていました。

 

専門知識と資格を取得するために電子工学の専門学校へ

―退職後は、専門学校に入学されたそうですがこれは計画していらしたんですか?

角 実は、教員時代に体を壊してしまって、定年よりも1年早く退職したんですよ。辞めると時間は自由になるし、退職金はあるし、少し好きなことをやりたいなと思って八王子にある「日本工学院八王子専門学校」の電子・電気・CAD科に入学したんです。
計画していたことではありませんが、おもちゃ病院の先生といっても資格があるわけではないので、頼む方も不安でしょ。それで何か資格を持ちたいと思ったのと、専門的な勉強をしてきてないのでちゃんと勉強したいと思っていたんです。

―若い学生さんに混じって講義を受けるというのはどんな感じでしたか?

角 この年で入学する人は珍しいので、よく話しかけられたりして面白かったですね。 ただ朝から晩までずっと座ったままの講義が続くのがちょっと大変でした。でも興味のあることを必死で勉強したので、就職をするなら校長推薦がもらえるくらいの成績で結構優秀だったんですよ。学校では、「資格は邪魔にならない、出来るだけ取れ」ということだったので、私は頑張って、3年間で7つの資格を取りました。

―「具体的にはどのような資格を取得されたんですか?

優勝したおもちゃと同じモデルの 相撲ロボット

角 第二級陸上特殊無線技士と第三級海上特殊無線技士。それから電気工事士。一番欲しかったのが家電製品エンジニアという資格でした。この資格は家電製品を修理する技術者の資格で、これは「生活家電」と「AV情報家電」という二つ の資格に分かれているのですが、それぞれ合わせて5回の挑戦で何とかとることができました。
あとボイラー技士やアーク溶接などの資格も取りました。二年間で電子・電気CAD科を卒業したのですが、もう少し勉強がしたくてテクノロジー研究科に進学。ロボット工学を専攻し、実習を中心に更に一年間勉強し、結局専門学校には三年間在籍しました。

―ロボット工学とはまた最先端ですね。実際にロボットを作るんですか?

角 卒業前に相撲ロボットを二人1組で作って競技をする大会があるんです。そのロボットの設計デザインからプログラミングまでを全て自分たちで作り、大会で戦わせるんです。実は、その大会で優勝しました。
自分の作ったもので優勝するのは気分がいいですよね。しかも将来のロボット業界を背負う若者達と張り合って勝ったというのは本当に嬉しかったですね。

「国分寺おもちゃ病院」は全国でも貴重な存在

今まで「国分寺おもちゃ病院」は何度かメディアで紹介されていますね。

おもちゃ病院の外観

角  2011年に東京新聞で紹介記事が掲載されました。東京新聞の親会社は中日新聞なので中日新聞にも同じ記事が、こちらはカラーで掲載された様で、名古屋や富山など各地から問い合わせが来ました。新聞を見た人は、「今度頼んでみよう」と記事を切り抜いて連絡してくれたりしましたね。新聞に紹介されるとテレビ局からも取材の依頼があり、日本テレビでも紹介されました。

―「おもちゃ病院」は国分寺だけではなく全国にあるんですか?

角 全国に「おもちゃ病院」はあります。ただ、余り存在が知られていないのと、知っていてもやっている場所が児童館や公民館で、活動日も月に1回というのがほとんどなので、おもちゃをすぐにでも治してもらいたいという人々のニーズには十分応えられていないことがあるのだと思います。
さらに自宅でやっていて「いつでも開いています」というところは少ないので、色々探した人が私のところにたどり着くようです。ここでは宅配でもOKとしているので福岡県、鳥取県、三重県など遠方からも修理の依頼があります。

ー依頼で多いのはどのような修理ですか?

角 電池を使ったおもちゃの不具合の半分以上は、電池がなくなっただけなんですよ。みなさん電池の容量がどれくらいかわからないので、電池がなくなっていることに気づかない人が多いみたいですね。100円ショップでもバッテリーチェッカーを売っているので、チェックしてみるといいと思います。後は、電池のふたをなくした人がよく来ます。

―家にもいくつかあります。フタがなくなると電池が落ちて不便なんですよ。(笑)

角  そうでしょ。よくガムテープで留めてる人がいますよね。ここでは、修理の他にアルミ板を加工して新しいフタを製作することもあります。

―子どものおもちゃ以外も修理してもらえるんですか?

角 もちろんです。最近多いのは一人暮らしのお年寄りがよく持っている「プリモプエル」という癒しの人形です。これはあらかじめ時間設定しておくと、季節や時刻に応じた会話ができるようになっているんですね。 手にスイッチがあり、頻繁に使われるので、その部分がよく壊れるんですね。同じお人形を3回くらい直しに来たおばあちゃんがいました。既にブームは過ぎたと思っていたら最近、メーカーが修理を受け付けなくなったようで修理の件数が多くなりました。
おもちゃ病院の協会では、電気製品は治さないんですが、私は家電製品エンジニアの資格を持っているので電気製品でも何でも受け付けています。「ダメもと」で治れば「めっけもん」と思ってもらえるといいですね。でもこの間「洗濯機はどうですか?」って聞かれたんですが、出張で修理はしないので是非、持ち運べるものでお願いしたいと思います。(笑)

右上が癒し人形の「プリモプエル」

―修理は、基本、無料ということですが、加工したりすると材料費が必要ですか?

角 親御さんが持ってきた時は、材料費を100円程度いただくことはありますが、子どもが自分でおもちゃを持ってきたときは無料にしてます。(笑)ただ、部品交換の場合は、実費のみいただいてます。

子どもが関われるシンプルなおもちゃを

―障がい児支援にも力を入れていらっしゃる様ですが「スイッチ教材」について教えて下さい。

障がいに合わせて角さんが考えた様々なスイッチ教材

角 簡単に言えば、障がいを持ったお子さんでも普通のお子さんが遊ぶおもちゃで遊べるようにスイッチ部分を外部に取り出すということなんです。
スイッチの種類は障がいの程度や出来ることによって違いますが、指先の細かい動作が出来なくても体の一部が自分の意志で動かせれば遊べるんですね。私が関わってきたお子さんはここにあるものでだいたい対応出来ます。特に寝たきりの重度の障がいを持った子どもたちは、遊べるおもちゃが限られていて、自分から働きかけることが出来ずほとんどが受け身なんです。でも赤外線のスイッチなら、おもちゃにスイッチを埋め込むだけで家にあるテレビのリモコンなどで遠くから自分でおもちゃを動かすことが出来るんですよ。

―自分の意志でおもちゃを動かせるというのがいいですね。
角 私が教育で一番大事にしてきたことは「自己選択」「自己決定」ということです。自分で選んだことを自分でやるためにこのスイッチ教材は、とても有効なものです。

さっそく治ったリモコンカーを走らせてみる少年

―最近のおもちゃは自分から関わるより受け身なものが多い気がしますが、どう思われますか?
角 最近の電子的なおもちゃは、おもちゃが自分で遊んでいるような物が多いですね。眺めて遊ぶだけの物が多いですよね。
治す側から見れば、出なかった音が出たり、動かなかったものが動くのは治した充実感があり楽しいんですけど。本来、子どものおもちゃは、イメージを膨らませたり、工夫したりしながら遊ぶ道具なんですよ。子どもがもっとおもちゃと関われるものがいいと思います。
特に小さいうちは、勝手に動くおもちゃよりも自分で動かしながら、イメージを広げてあそべるシンプルな物がいいでしょうね。

―最後に今後の活動について考えていらっしゃることをお聞きしたいのですが

角 おもちゃを治すのは自分の趣味でやっていることなのですが、治す事を通じて物を大切にするという気持ちを持ってもらいたいと思っています。
それから、出来るだけ子どもの目の前で修理をしたいですね。おもちゃの内側は外からみるのと全然違うし、壊れた原因がどこかわかってそれで興味をもってくれて自分でも治してみたいと思ってもらえると嬉しいですね。
おもちゃを治すことは「科学の目」を育てることだと思うので、子どもたちの「科学の目」を育てる機会をこれからも増やしていきたいと思っています。

角さんのぶんハピ 国分寺歴 30年

プレイステーションからの感謝状

国分寺プレイステーション

プレイステーションに行くと子どもの遊びの原点が見られていいですね。うちは二人の子どもをプレイステーションで育てました。
プレイステーションにある小屋のひとつは、私が同じ子育てグループのお父さん達と一緒に、日曜日に集まり、古材を集めて作ったものなんですよ。プレイステーションは最初におもちゃ病院を始めた記念すべき場所でもあります。

市内の治療受付場所

「国分寺おもちゃ病院」TEL 042-304-3624 新町3-22-23 院長在宅時常時開院
国分寺おもちゃ病院 HP http://members3.jcom.home.ne.jp/sumikakao/toy-doctor.html
「国分寺市プレイステーション」TEL 042-323-8550 西元町3-26-35 受付随時
「BOUKENたまご」TEL 042-326-9770 本町2-3-3 受付随時
※ ひかり児童館(偶数月)、もとまち児童館(奇数月)にて
第3火曜日10:00〜14:00開院
市内の全児童館でも随時受け付けています

インタビューを終えて

インタビューの途中でラジコンカーを受け取りに来た少年がいました。今までにもなんどか来ているとのこと、彼は治ったおもちゃを手にとても嬉しそうでした。壊れても治して使えることを自分のおもちゃで体験している少年の中に“科学の目”が育っているのを感じました。
角先生がインタビューで「自分が楽しんだ結果、周りにいる人が喜んでくれたりするのは余録であって、人のためとか地域のためとかを最初において物事を始めないほうがいいね。まず自分が楽しむことからはじめないとね」とおっしゃった言葉通り、角先生がおもちゃ病院で本当に楽しんで仕事をしていらっしゃるんだなーというのが伝わってくるお話と空間でした。
CHEERSも「私たちが楽しんでしたことが結果的に周りの人に喜んもらえるような活動」を続けていきたいと思いました。

 取材:CHEERS

 


第3回 尾崎真澄さん オザキエンタープライズ(株)副社長 

「ぶんハピねっと」が注目する、国分寺の「あの人」にインタビューします。
国分寺市内と近隣にてアミューズメント店舗OZEC、グループ企業として国立市で介護施設、八王子市でスイミングスクールを経営しているオザキエンタープライズ株式会社の副社長、尾崎真澄さんにインタビュー。同社は、社内での人権啓発活動に会社全体で取り組んでいるユニークな地域密着企業です。人材を育てることで地域へ貢献していきたいという尾崎さんの取り組み、国分寺市での今後の素敵な計画についてお聞きしました。

尾崎真澄さんのプロフィール

東京都八王子市生まれ。現オザキエンタープライズ(株)の社長であるご主人と結婚すると同時に同社に入社。平成6年、副社長に就任。社員教育、採用担当役員。3児の母。2003年にジュネーブで開かれた国連人権小委員会で講演。2011年にはストックホルムのクラブハウス※の世界大会でも講演を行うなど多忙な日々を送る。社内での人権啓発への貢献が評価され、2011年に「人権功労賞」※を中小企業として初受賞。

※ 人権功労賞—「人権文化を育てる会」が独自の判断基準に基づき人権啓発活動に顕著な実績を挙げた企業や個人に対して「人権功労賞」顕彰を実施。第1回目の受賞企業は全車両にシルバーシートを採用した阪急電鉄
※ クラブハウス―精神障がいのある人が自主的に集う、社会復帰のための自立支援の組織(日本国内に5カ所)。クラブハウスの活動や運営は、スタッフと利用するメンバーが対等な関係で一緒に話し合いながら決めていく

国分寺発「世界一幸せになる朝礼」

 ―「世界一幸せになる朝礼」にゲストとして参加させていただきありがとうございました。既に2800名近い方が参加されているとのことですが、社員の皆さんが、はつらつとしていてプラスのエネルギーにあふれている朝礼でした。

 尾崎副社長(以下、敬称略) ありがとうございます。この朝礼は、他社の朝礼に参加して良かった内容を取り入れたり、以前社長と私の2人で西田文郎さん※のメンタルトレーニングを半年間ほど受けた中から、参考にしたいところをポイント、ポイントで取り入れて行っています。
朝礼は、「本気ジャンケン」「ハッピー体操」「1分間ストローク※」などで構成し、主にメンタルトレーニングを目的に行っています。
最近では、「速読」がメンタルトレーニングにとても良い方法なので、朝礼に取り入れています。

※西田文郎—北京オリンピックで金メダルを獲得した女子ソフトボールチームを始め多くの国内トップスポーツ選手を指導するメンタルトレーナー
※ストロークとは、認知(肯定)、あるいは否認(否定)を表現・伝達する言動の一単位のこと

 ―この朝礼には具体的にどのような狙いがあるのですか?

世界一しあわせになる朝礼

尾崎  たとえば、「本気ジャンケン」では、負けた人も「やったー」って喜ぶんですね。負けたというマイナスのエネルギーを次には勝つぞというプラスのエネルギーに即座に(約3秒間)変換することを目的にしています。
 「ハッピー体操」は、「ハッピー」と言いながら両手でL字(Love & Lucky)のフレームで自分の顔を囲み、にっこり笑うことで言語と行動を一致させて思考(潜在意識)にプラスイメージを楽に送り込むことが出来ます。
「1分間ストローク」ではペアになった人と膝をつき合わせて向かい合い、相手の長所をただひたすら褒めることで相手にも自分の中にもプラスのストロークを増やします。これは日常的にも社員間で「サンクスカード」を贈りあい、手書きの文字で感謝を伝えることもおこなっています。

Love & Luckyのフレームで笑顔の尾崎社長と副社長

―私も副社長の尾崎さんから朝礼の中でたくさん褒めてもらいました。(笑)
面と向かって褒めてもらうのはとても恥ずかしかったのですが、普段の生活で、褒めてもらう機会はなかなかないので嬉しかったです。

尾崎 そうなんです。その嬉しい気持ちを周りの人へ広げていくことが大事だと思っています。プラスのストロークをたくさんもらうと幸せで笑顔になるし、他の人へプラスのストロークを投げかけることで、自分にも周りにもプラスの影響を与えることが出来ます。

―朝礼には、人を育てるエッセンスがたくさん入っていますね。

尾崎 尾崎家が、350年続く農家ということもあって、会社経営のベースに「農家の心を大切にしていこう」と言う思いがあります。土をよく耕すことでいい作物が実りますよね。環境を整えることでその人が元々持っている芽を伸ばしていく、種は完全だと言う考え方なんです。

―ところで、会社のイメージキャラクターが「りんご」だと言うことですが、「りんご」にはどのような意味が込められているのですか?

尾崎 りんごは、横に切ると種の部分に星があって、縦に切るとハートの形のようになりますよね。外見や育った環境など人はみんなそれぞれ違うけれど、一人一人の内側には星のような輝きと暖かい心を持っているという意味を込めています。それで、縁のあるりんご農家の方のところで収穫したりんごを毎年、店にいらしたお客様に差し上げています。その際に手書きのメッセージをつけて差し上げていて、とても喜んで頂いています。

会社全体で人権活動に取り組む

―現在、社内で力を入れて行っているOHR(Ozec Human Rights)、人権活動についてお伺いしたいと思います。そもそもこの活動はどのようなきっかけから始まったのですか?
(オザキエンタープライズ(株)は、2011年に「人権文化を育てる会(世話人に日本ユニセフ協会会長赤松良子氏他8名)」より社内での人権活動に対して人権功労賞を受賞)

左から「人権啓発標語&ポスターコンテスト作品集、小冊子『愛する人へ』、OHRレター「こころの扉」

尾崎 1999年の男女雇用機会均等法が施行されたのを機会に社内で人権について学ぼうとスタートしました。学んでいくうちに「人権は生活そのもの」だと気づいたんですね。
それで活動のベースになる『愛する人へ』という小冊子を社内で作りました。
この活動を応援して下さっている川村文男先生は、18年間、大手銀行で、人権を学ぶリーダーをしていらした方で、偶然にも国分寺在住だったという縁もあり、10年前から月1回のOHR委員会のミーティングに入っていただいています。先生には身近なところから人権について考える機会にしてほしいと毎月発行している社内報「こころの扉」の執筆をお願いしています。
その他に、国連の定めた人権週間(12/4〜12/10)に合わせて毎年、人権啓発標語とポスター、作文を社内で募集してコンテストを行っています。

―精神障がいのある方を受け入れる「過渡的雇用」※は、具体的な人権活動のひとつだと思いますが、今回、インタビューをさせて頂くまでクラブハウスという施設のことを全く知りませんでした。

尾崎 現在、クラブハウスは、世界30カ国で約300カ所あります。2011年にス

2011年ストックホルムで開催されたクラブハウス世界大会にて講演

トックホルムで開催されたクラブハウスの世界大会に招かれ、そこで講演し、パネルディスカッションにも参加してきました。日本ではまだ5カ所しかないんですね。
クラブハウスは精神障がいのある人が自立するために障害のある人自身が支援を受けながら運営している施設です。当初、「過渡的雇用」を決めるまでは、社内で不安の声もありましたが、受け入れたクラブハウス「はばたき」(小平市)の方が働くことでどんどん元気になっていくのを目の当たりにし、私たちの方が元気をもらうことになりました。

※ 過渡的雇用—精神障がいのある人が地域の一般企業で短期間の簡単な仕事を行い実際に働いて賃金を得ることで働くことに適応していく場を提供する雇用形態。

―「人権問題」と聞くと難しく考えてしましますが、一人一人の違いを認め、それぞれがかけがえのない大事な存在であるということに気づき、生まれてきたことに感謝するということなんですね。

尾崎 そうですね。最初は私たちも難しく考えていたのですが、取り組んでみると今まで私たちが大事にしてきたことに重なる部分がたくさんありました。「人権」という言葉には、固くて難しい印象がありますので、もう少し優しい言葉になれば、もっと取り組みやすくなると思います。

 

地域へ還元する「幸せの森」プロジェクト

さて、色々とお話を伺ってきましたが、今後、地域密着企業として地域へ還元する具体的な取り組みがあれば教えていただけますか?

尾崎 私は、いつも社員やアルバイトのみんなに「電車に乗ったときにこの人の横に座りたいなと思われる人でいてね」と、伝えています。そうしたことからも、社会貢献が始まると考えています。それから、フロウヴァルド構想というのがあります。フロウヴァルドとはドイツ語で「幸せの森」という意味。西国分寺の姿見の池の横に尾崎家が所有している約180坪の細長い土地があって、主人の父がその土地で「昔の姿見の池の風景を再現したい」という夢がありました。現在、その場所に市民のみなさんへ開放できるような施設を作ろうと、国分寺市と一緒に計画を進めているところです。

―「フロウヴァルド(幸せの森)」というネーミングにワクワクしますが、どのような施設になるのでしょうか? 

尾崎フロウヴァルドは、私が嫁いでからずーっと「3世代が共有できる癒しの空間を作りたい」と言い続けていたので、そのようにしたいと思っています。フロウランドヴァウ(幸せな農場)で作られたものを食べたり、販売したり、子どもたちは体験学習が出来たり、ワークショップや社内研修なども実施したいと考えています。年配の方が利用できる場所や今、自宅でやっている家庭文庫(ともだち文庫)も出来るといいなと思っています。

―素敵な構想ですが、施設の完成は、いつぐらいになる予定ですか?

 尾崎 当初、2013年の4月の完成予定でしたが、実際にはもう少し先になりそうです。建物はドイツでシュタイナー建築を学んだ岩橋亜希菜さんに設計をお願いしています。
※ シュタイナー建築—シュタイナーはドイツの人智学者、建築家、教育者。現在では、全世界に独自のプログラムをもつシュタイナー学校(日本国内にも)がある。建築物は、有機的な形で、木、しっくい、大理石、テラコッタタイルなどの自然素材を多用しているのが特徴。

―完成するのが今からとても楽しみですね。ところで、尾崎さんにとって国分寺はどういう場所ですか?

 尾崎 第二の故郷ですね。八王子の出身ですが、24歳で国分寺に来たので、こちらでの暮らしの方が長くなりました。
もしかしたら八王子よりも好きかもしれません。国分寺は私にとって大事な場所、本当に好きな街です。

―では、最後に尾崎さんの関心事、将来の夢について教えて下さい。

 尾崎 現在の関心事は、人の成長ですね。30年前からメンタルトレーナーに興味がり、今は、NLP※を学んでいます。将来の夢は、弊社の文化を日本だけではなく、世界に発信することです。
人と人の縁をつないでいくことが私のミッションだと思っています。

※NLP —神経言語プログラミングの略で優れた能力を持った人の行動バターンを分析し、パターン化することで作られた、コミュニケーションや心理療法などを中心にした心理学


尾崎さんのぶんハピ 国分寺歴 28年

本社の場所と武蔵国分寺公園近くの小さな森

私のぶんハピは、本社のあるこの場所でしょうか。他は、武蔵国分寺公園付近をウォ−キングしているときに見つけた保育園近くにある小さな森のようなところです。その場所がとてもいいな〜と思います。

インタビューを終えて

「世界一幸せになる朝礼」は、朝から頭も体も全開になり、幸せと一緒に元気ももらえる特製フレッシュジュースのようでした。そして、「フロウヴァルド構想」のお話は今から完成が楽しみです。尾崎さんは、毎日ご両親へ感謝の言葉を伝えるはがきを送っているそうで、取材した日で1647枚とのことでした。取材後、私も実家の両親にはがきを送ったところ、「どうしたの?」と母が驚いて電話をかけてきましたが、とても喜んでくれました。毎日は無理でも今後も続けたいです。人は一人では生きていけません。まず、家族、友人など自分の周りにいる大切な人からきちんと感謝の気持ちを伝えていきたいと思いました。尾崎さんの柔らかく温もりのある声で終始、和やかな雰囲気の中、楽しく取材が出来ました。(途中でご自身が文章を書かれた絵本「the tree of life」の朗読と歌を素敵な声で聞かせて頂きました。) 国内だけでなく海外へも飛び回っていらっしゃる尾崎さん、多忙な中、お時間を作っていただきありがとうございました。

 取材:CHEERS

 


第2回 松田節子さん 主婦 

「ぶんハピねっと」が注目する、国分寺の「あの人」にインタビューします

「ひと」の第2回目は、市内で東元町文庫を仲間と運営している松田節子さん。「市民のための図書館づくりの会」(前代表)や「教育を考える会」を立ち上げ、その活動は30年以上、現在の国分寺市の教育を市民の立場で支えてきた松田さんにお話を伺いました。

松田節子さんのプロフィール

東京都中央区生まれ。都内で中学の英語教諭を5年勤めたのち退職。2人のお子さん、お孫さんがいる。1973年に家庭文庫を始め、現在も平安神社内の自治会公会堂で「東元町文庫」の運営に参加。語りの市民グループ「でんでんだいこ」のメンバーとして市内の小学校へ語りや読み聞かせの出前授業に参加。今回で5回目になる3人の語り手がお国言葉で語る「べっぴん三(さん)の会」※の企画、運営に関わる。

「教育を考える会」会員。「市民のための図書館づくりの会」前代表。

※「べっぴん三(さん)の会」語り手は赤羽目喜美子南部弁)、藤巻愛子甲州弁、宮川ひろ上州弁。国分寺在住の児童文学作家さんの3人。国分寺市民他13人のスタッフで運営している。

 

 

読書の楽しさを伝えるため家庭文庫を開く

―子どものころからよく本を読んでいらしたのですか?

 松田さん(以下、敬称略) 実は、私は子どものころ、それほど本を読んでいなかったんです。高校生時代もひたすら受験勉強をしていました。ただ、夫は私と違って受験勉強は全くしないで本ばっかり読んで育った人で。結婚してから、夫と私との教養のギャップに気づいて愕然としました。

 ―小さい頃から読書家というイメージですが意外ですね。

松田  よくそう言われます。(笑)夫を見ていて「子どもから学生時代に本を読む習慣をつけることが大切」と思ったんです。それと長女が生まれたときに『くろうまブランンキー』(伊東三郎/著、堀内誠一/イラスト、福音館書店)という絵本を元同僚から頂いて、その本にもすごく感動しました。ちょうど新しい子どもの本がどんどん出ている時期でとても魅力的でした。

 ―実際に文庫を始められたきっかけを教えていただけますか?

松田 今から40年くらい前ですが、国分寺第1小学校でPTAの先輩が学校の先生と一緒に月1回「読書会」を始めたんです。私もその活動に参加していました。この頃「日本親子読書センター」※の集会を知って友人6、7人で参加しました。集会参加後、いろいろと刺激を受けて「私たちも文庫を開きたいね」となって、1973年のクリスマスに自宅で文庫活動を始めました。

※「日本親子読書センター」…元小学校教諭、故斉藤尚吾氏他が1970年代に設立。毎夏全国集会を開催、日本中に文庫活動を広める。現在代表は関谷康子さん。夏休みに1泊2日で親子がそれぞれ読書に楽しむプログラム「夏のつどい」などを企画、運営している。

 ―自宅の家庭文庫から現在の場所に移られたんですか?

松田 そうなんです。文庫を始めたら家のダイニングに子どもがぎっしり入ってきて、もうすごい状態だったんですよ。夏は暑くて大変でした。それで、読書会を一緒にやっていた友人のお父さまが自治会長さんだったので、公会堂の一部屋に文庫の本をおかせてもらえることになって、現在の場所で「東元町文庫」を始めました。今でも、自治会の援助を受けています。

東元町文庫がある平安神社

―文庫の本はどのように集められたんですか?

松田 自宅で文庫を始めた時に図書館から100冊まで団体貸出しで借りられるサービスがあり、当時は唯一の恋ケ窪図書館間から届けてもらっていました。現在は、ほとんどが助成金を頂いて購入した本です。

―何名で運営されているのですか?

松田 現在のスタッフは10名です(数十年前は30名の時も)。スタッフは、みんなお子さんが文庫育ちの人が多いです。お子さんが赤ちゃんのときから文庫に通っていたスタッフもいます。私より若いスタッフの活躍に目を見張ります。

―文庫に来る子どもたちは小学生が多いですか?

東元町文庫で熱心にお話を聞く子どもたち

松田 かつては小学生が多かったのですが、最近はお母さんと一緒に来る幼稚園児など小さいお子さんが多いですね。文庫が始まる前は凄く賑やかなんですが、本読みが始まるとみんなしっかり聞いて感動する時があります。文庫で工作をするんですが、小学生はどんどん自分でやれますが、小さいお子さんが出来ないところはお母さんが一生懸命作っていたりして、若いお母さんたちがすごく熱心で、お母さん同士のいい交流の場みたいです。

文庫活動から地域活動へ

文庫活動を始められた当初、恋ケ窪図書館以外に図書館はあったんですか?

松田 本多公民館に図書室がありましたけど、いわゆる図書館は恋ケ窪図書館だけでしたね。図書館は恋ヶ窪、光、もとまちの順で出来ました。それから本多公民館が改築されて、現在のように図書館と公民館が立派になりました。そして最後が並木です。並木が出来るまでは大変でした。公民館は、目的のある人が行くでしょ。図書館はふらっと行けるところ。その時の図書館界のキャッチフレーズが「買い物かごを下げて図書館へ」だったんですよ。で、本当は図書館を1階に作りたかったんです。

―そういえば、市内の図書館で2階にあるのは並木だけですね。

松田 結局図書館が2階になってしまいましたが、あそこになるまでには、すごい熱気ある集会を開いたりね。その当時は、我が家で「どういう風にしよう」と集まって相談したり、集会には市内の公民館関係者のほとんどの人が参加していましたね。

―国分寺の図書館のほとんどすべてに関わっていらっしゃったんですね?

 松田 そうですね。「図書館づくりの会」を作ったのは、もとまち図書館をつくるもっと前。恋ヶ窪図書館をつくるときから図書館職員と連携をしながら色々と話し合ったりしていました。本多公民館で地方自治講座と言うのがあって、この講座では「自分たちの手で何かアクションをしなければ何も起きない」という事を学びました。もとまち地区に図書館と公民館がないので、文庫を始めて数年経って、「やっぱり家の近くに図書館・公民館がほしい」と、本多公民館に出張講座を自治会の公会堂で開いてもらって、「南部地区図書館・公民館作りの会」を作りました。『公民館を作ろう』という会を作って、図書館と公民館を建てる時に設計段階から、「市民も参加できる建設検討委員会を作ってほしい」という陳情書を市に出しました。これは、東村山市をお手本にしました。東村山は図書館を作るときに市民もすごく勉強して建設に際して市民の意見を入れてもらい、館長も日野の図書館長を市民が引っ張ってきたんですよ。

30年間発行している「みに・ひろば」

―自分の地域を豊かにするのは自ら動かなくてはいけない」ということですね。松田さんは「図書館づくりの会」のほかに「教育を考える会」や「教育フォーラム」など市民として教育に関する活動にも参加されていますね。

 松田 もう亡くなられたんですが、東京大学の教授で国分寺7小のPTAやP連の会長をやっていらした持田栄一先生の教育講座が本多公民館であり、私は講座修了後にできた自主グループに参加していました。持田先生からは、ドイツの教育システムなど教育の大事なところを学びました。教育委員会が悪いって文句だけ言ってたって良くならないでしょ。それで、「教育を考える会」をつくって、教育委員会の傍聴を始めたんです。「みに・ひろば」という傍聴記録を仲間と30年間続けて出しています。

―その活動が「教育フォーラム」につながるんですね?

 松田 教育委員会を傍聴していて「教育に市民の意見を反映させたい」、「教育を市民の手に取り戻したい」と思ったんです。それで20年くらい前にP連(PTA連合会)を通じて市に「教育市民会議の開催」の陳情を出し、市議会で全員一致で議決されました。最初は行政が主導だったんですが、その時の指導室長に「私たちが関われるような教育市民会議をやってほしい」とお願いして、今のように分科会を作って集会を開く「教育フォーラム」が出来たんですよ。

―「教育フォーラム」での成果として何か具体的にありますか?

 松田 始めは「読書をひろめる」でしたが、数年前に「学校図書館の整備が大事だ」と取り組み、三鷹市・狛江市の司書教諭と司書さんや、学校図書館で有名な山形・鶴岡市の朝陽第一小学校の司書、五十嵐絹子さんを教育フォーラムにお呼びしたことがきっかけになり、それまで小学校では週3日、中学校では週1日しか司書が勤務していなかったのが、5年前から市内の全小学校に、3年前から全中学校に図書館司書を常駐させるということにつながりました。

地域のおはなしおばさんでいたい

―「実にいろいろな活動をされていますが、やはり松田さんの活動のベースになっているのは「本」や「お話」ですよね。

文庫での松田さん

 松田 そうですね。文庫の活動以外には、語りの市民グループ「でんでんだいこ」※に参加しています。2010年は小学校でお話の出前授業を100時間以上行いました。学校の授業だから20~30人の前で語れるでしょ。市の図書館の協力もあり、学校図書館でも読んだ本を並べてくれて、学校の司書さんとも相談しながら活動しています。
※「でんでんだいこ」は須藤 初枝さんが中心となる語りのグループ。現在、20人近くのメンバーで活動している。
―授業として子どもたちにお話を届けるというのは素敵ですね。

 松田 私は、語りや読み聞かせをするのは、耳を育てること、人と人とのコミュニケーションだと思うんです。これは、人間関係をつくっていく上ですごく大事なことだと思います。

―ところで、松田さんが今、一番関心のある事はなんですか?

 松田 今は、市の財政事情により図書館業務が民間委託になるかもしれないという問題ですね。なんとかこれを阻止したいと思っています。カウンター業務は、本を渡す仕事だから誰がやってもいいと思っている人が多いんです。でもカウンターの仕事は、本を渡しながら市民の利用状況や希望をキャッチする大事なところなのね。利用者が文句を言うのもカウンターでしょ。委託になると市民の要望をカウンターですぐ対応するという事が(契約上)難しくなるんです。だから直営がすごく大事なの。それと図書館は蔵書管理を長期的な視点で考えないといけないのね。それには職員が10年、20年、30年培ってきたことが大事なんですよ。

―委託契約だと3年や5年ですよね。

松田 そうなんです。10年以上はないんですね。だからこの問題にはもっとみなさんに関心を持ってもらえたらなと思っています。それともうひとつは、「語り」のこと。私は、市内に昔話を語れる人が10人なのか50人なのか100人いるのかで地域の文化度が違うと思うのね。今後、若いお母さんたちの語り手が増えて地域の文化度が上がっていって、子どもたちが「お袋の味みたいに昔話を聞いて育った」って言うようになるといいなって思います。それには語る人も、いい語りを聞かないと勉強にならない。それで市内在住の児童文学作家の宮川ひろさんにお願いして他の2名の語り手(都内在住)をお呼びしてお国言葉で語っていただく、「べっぴん三(さん)の会」を年に1回、開催しています。2011年で5回目、語り手と聞き手が一体となって毎回とってもいい雰囲気の語りの場になります。

―最後に松田さんの夢を教えていただけますか?

松田 私は、自分の足腰が動かなくなったら、家で“おはなしおばさん”をやれたらな〜って。それとお話を語れる人が、いっぱい増えるといいわね。お話を通して地域の人と親しい関係を多く築いて何かあった時に助け合えるそんな街にしたいって思います。

 

松田さんのぶんハピ 国分寺歴 45年

空に広がる夕焼け雲と市内の図書館

自宅から武蔵国分寺跡(西のほう)に向かってか、近くの植木畑の道で夕焼けが見える場所です。空が広がって見える場所に来ると雲の様子に見とれます。図書館はいつももっとゆっくり来たいなと思いながらあわただしく帰ります。図書館は一番ゆっくりしたい場所です。

インタビューを終えて

今回のインタビューで一番印象に残ったのは「地域をよくするには地域に住んでいる人、自らが動かなくてはいけない」ということ。読書の楽しさを子どもに伝えるために始めた松田さんの文庫活動が地域活動、教育フォーラムへと広がり、その成果を残している事はすばらしいです。行政だけにまかせるのではく、自分で必要だと思ったことは自ら動いて実現させてきた松田さんのパワーに脱帽。そして今、それを当たり前の事として享受していることに感謝です。あと数年で80歳を迎えられるとは思えない若々しさと、しゃきっとした江戸っ子の話しっぷりに力を頂きました。継続していくことの大切さも再確認。私たちも「国分寺に住む誰もがHAPPYに」を目標に活動を続けていきたいと思います!松田さん、インタビューにご協力いただきありがとうございました。

撮影協力:東元町文庫
開催日時 毎週水曜 14:30~16:00
場所  東元町一丁目自治会公会堂(平安神社内)

 取材:CHEERS

 


第1回 高浜洋平さん 会社員 

「ぶんハピねっと」が注目する、国分寺の「あの人」にインタビューします
(偶数月に更新予定)

記念すべき第1回目は史跡の駅「おたカフェ」を運営する高浜洋平さんです。
今や国分寺のイベントに欠かせない存在となった高浜さんですが、実は本業は会社員。
仕事を持ちながら休日に地域活動をする理由、街への思いなどを伺いました。

高浜洋平さんのプロフィール 

1977年、東京都北区生まれ。2007年「お鷹の道」にて日曜日限定おもてなし屋台を開始し、東京経済大学福士教授と一緒に軽食喫茶・国分寺名産品販売を2年間行ったことがきっかけで、2009年10月に史跡の駅「おたカフェ」開業に携わり、運営を任されることに。
その後「水」を切り口に各分野の専門家を講師に招く「水の学校」や、住民と農家の顔が見えるイベント「隣人まつり」などを企画、開催する。2011年は地域のお宝を再認識するイベント「ぶんぶんうぉーく~国分寺再発見~」の事務局で総合調整役として活躍。
大手建設会社に務める会社員であり、2児の父親でもある。

 

仕事だけの生活から「おたカフェ」を誕生させるまで

 ―まず、高浜さんが地域の活動をはじめようと思ったきっかけを教えてください。

 高浜さん(以下、敬称略) 自宅と会社を往復する毎日だったので、30歳をなったのを機に、土・日曜ぐらいは自分が住む国分寺を良くするような活動をしたいと思ったのがきっかけです。大学時代からまちづくりを勉強し、会社でもまちづくりの部署にいるのですが、コンクリートのビルを作ったりしていると、街をつくっているようで街を壊しているような、そんな矛盾もあったりして。

 ―そこからどのように動いていったのですか?

高浜  東京経済大学で開催されていた「まちづくりフォーラム」行きました。そこで国分寺駅北口のまちづくりの拠点「まちづくり広場 国分人」をやっていた東経大の福士正博先生の話を聞く機会があったんです。
その約1ヵ月後に実際に先生にお会いして「国分寺駅北口再開発予定地の空き地を、屋台村のようにして、毎週日曜だけでも楽しい場所にしたい」と提案したら、興味を持っていただいて。
さらにその1ヵ月後、先生と一緒に国分寺市役所の某部長に提案書を持って行ったら「駅前より、むしろ市有地のお鷹の道で何かやってみてはどうか」という話になりました。

 ―それまで「お鷹の道」のことは、知っていたのですか?

高浜 お話を聞くまで「お鷹の道」はもちろん、湧き水があることも全く知りませんでした。たぶん、国分寺には僕のように「お鷹の道」を知らないサラリーマンがたくさんいると思います。

―「お鷹の道」での活動は、具体的にはどのように進んだのですか?

高浜  ちょうど同じ時期に、友人たちと「屋台の車で色々なところに出撃して、時と場所に応じた屋台をやりたいね」と話していたので、共同で屋台の車を購入しました。それで、僕の嫁さんがスパイス料理教室で教えていたのでそれを生かしたいと思ったのと、国分寺市から「地元をPRしてほしい」という要望があったので、「地場野菜をスパイスで美味しく食べる」をコンセプトにしてスパイスカレー・喫茶によるおもてなし屋台をやることに決めました。

―屋台を出すきっかけになった福士先生との関わりはどうなりましたか?

高浜 屋台の活動は福士先生と一緒にやっていたんです。2007年7月~2008年12月の毎週日曜日、僕たちは地場野菜スパイスカレーと喫茶を出し、福士先生はゼミの学生さんと国分寺の名産品を販売していました。
カレーと名産品を提供するスタイルは、「おたカフェ」で今も続いています。

史跡の駅 おたカフェ

―「おたカフェ」がオープンするまでを教えてください。

高浜 「お鷹の道」でのおもてなし屋台活動の2年目になった頃、国分寺市から「お鷹の道にある空き家をどう活用するか」という話しが浮上してきました。
その後、「空き家をどのように使うか」について市民を交えて検討するなどプロセスを踏み、最終的には我々や福士ゼミと一緒に、おたカフェの設計やデザイン等を考え、備品や食器などを準備し、2009年10月にオープンしました

―それが、JR東日本のポスターに出演することになって(笑)。

高浜 そうなんです(笑)。「中央線が好きだ」のポスターで「お鷹の道」が紹介されることになり(2010年10月〜12月に中央線のホームに掲示)、国分寺の農家の方や、東経大の福士先生、福士先生のゼミの学生さん達と一緒に撮影していただきました。地元の人にも沿線の人にもPRになって、すごく良かったなーと思っています。

 

水をキーワードに学ぶ「水の学校」を主催

「国分寺の魅力は?」と聞かれたら今ならどう答えますか?

水の学校での高浜さん

高浜 今はもう間違いなく「緑が多くて湧き水があるのが魅力」と答えますね。
初めて「お鷹の道」に行ったときは、観光地というには中途半端だなと思っていました。その後、自分なりに色々調べて、この場所の1300年前の歴史についてや、湧き水が日本名水百選に選ばれているということなどを知り、すごいパワーがある場所だと思い直しました。

―現在、「おたカフェ」で月1回、生き物や都市開発など、各分野の専門家を講師に招いて水を色々な切り口で学ぶ「水の学校」を開催していますが、これも高浜さんのアイデアですか?

高浜 はい。 おたカフェの構想段階から考えていました。この土地の持つ力を何かの形で生かしたいと思っていたので、自分なりにこの場所の歴史を調べた時から「水の学校」をやろうと決めていました。

―今年で2年目の「水の学校」は、今までいろんな講師の方がいらっしゃったと思いますが、特に印象に残る講師をあげるとしたらどなたですか? 

高浜 正直なところ、みなさんのお話しはとても面白かったです。
そうだなぁ、作家の椎名誠さんは、部屋着にサンダルみたいな格好で「おたカフェ」に入って来たと思うと僕が前置きを話す前にしゃべり始め、話はどんどん色々な方向へ飛んでいくのに、きちんと事前にお願いしていた内容を盛り込み、最後には全て繋がるように起承転結のある話しになっていたのはさすがだなと思いました。
さらに驚いたのは、全く時計を見ていないのに講義時間の90分ぴったりで話が終わって、あー疲れたと微笑んで帰ってしまったこと。司会者の僕はあっけにとられてしまいました。

 

街と人を繋いで良い循環をつくりたい

―会社員を続けながら休日に地域の活動を続けるのは大変なことも多いと思いますが、そんな中で「やっていて良かった」と思うのはどんなことですか?

 高浜 地域でのつながりが広がったことですね。今、週末に国分寺の街を歩くと、かなりの数の知人に会いますよ(笑)。自分の街を育てるっていうのはすごくいいことだし、嫁さんや子どもも生活しやすくなるので、色々大変なこともありますが、結局は自分の生活に跳ね返ってきていると思っています。
「水の学校」では色々な先生と知り合い、ときには会社の仕事で相談にのってもらうこともあり会社の仕事にも還元されています。こうして積極的に公私混同しちゃうことで良い循環が生まれているなと。これからは公私を区切らない時代になっていく気がします。

―お子さんにとって国分寺はいかがですか?

 高浜 そうですね。僕は北区で育ったので子どもの頃の景色がコンクリートでグレーのイメージしかなかったので、緑や湧水があって自然豊かな国分寺は、子どもにとっても子育てをする親にとっても良い街だと思います。

―今後の活動、やりたいことについて教えてください。

 高浜 2010年の6月、地元農家さんと住民の顔が繋がったらいいな、という趣旨で、「隣人まつり」という、参加した地域の人が畑で収穫した野菜を料理して食べるイベントを企画をしました。2011年は、隣人まつりをきっかけに地域の方々の横のつながりができたので、「ぶんぶんウォーク」という国分寺のお宝をみんなで歩いて探そうというイベントにつながりました。
今回のイベントのおかげでさらに横のつながりをつくることができ、それぞれに良い循環が生まれていると思います。
今後はこの循環をなくさず、地域の中で人、物、金などが回っていく仕組みを作れるといいなと思っています。
あと、農家さんといえば、今、おつきあいしている農家の方がご高齢の方が多いので早く何かできないか、何かしないと、と思っています。

―高浜さんのプライベートでの今後の夢は?

高浜 自分の夢ですか? 自分の住む国分寺がさらに暮らしやすい街になって、子ども達がすくすく育ってくれればいいかなと思います。夢は、出来れば早く仕事を辞めて(笑)、嫁さんとゆっくりした街の社交場的な喫茶店が出来たらいいなと思っています。
趣味だけで好き勝手が出来るお店をやりたいですね(笑)。

 

高浜さんのぶんハピ 国分寺歴 6年

「子どもたちと一緒に畑に行くこと」

畑は楽しいですね。僕は食べることが好きなんで。家族と一緒に農家さんの畑ヘ行って、土や緑の香り楽しんでブルーベリーやイチゴなど採ったものを食べる、みたいなひとときがハッピーです。

 

インタビューを終えて

趣味だけでお店をやるという夢、実現するといいですね。高浜さんが地域で活動しながら作ってきた繋がりが良い循環となり、次へと繋がっていく。国分寺の色々なところで小さな繋がりが生まれ、循環が出来る。国分寺がどんどん素敵な街になっていく予感がします。微力ながら「ぶんハピねっと」でそのお手伝いができればと思っています。
今後も高浜さんの活動に注目していきたいです。お仕事帰りにインタビューのお時間をいただき、ありがとうございました。

   撮影協力:イノウエコーヒーエンジニアリング   取材:CHEERS